はじめに
日本が世界に先駆けて直面している超高齢社会。その華やかな長寿の影で、静かに、しかし確実に生命を奪い去る「窒息」という病態が、公衆衛生上の巨大な課題として立ちはだかっています。厚生労働省の統計によれば、日本国内で気道異物閉塞により命を落とす人は年間8,000人を超え、これは不慮の事故による死因の第2位を占めています。特に正月を象徴する「餅」は、その粘弾性の高さから物理的な閉塞のリスクが高く、救急現場では冬の風物詩とも呼べる悲劇を繰り返してきました。
しかし、このあまりにありふれた緊急事態に対して、私たちが手にしている医学的エビデンスは、驚くほど脆弱でした。背中を叩くべきか、腹部を突き上げるべきか。国際蘇生連絡委員会(ILCOR)が示すガイドラインですら、その推奨の根拠となるエビデンスレベルは非常に低いものに留まっていたのです。
今回ご紹介する「MOCHIレジストリ」による大規模解析は、この「空白の領域」に鋭いメスを入れ、日本の救急現場から世界へと発信された、極めて示唆に富む臨床研究です。この論文の精緻な分析を通じて、私たちが明日、誰かの命を救うために知っておくべき真実を解き明かしていきましょう。
研究の新規性
この研究の新規性は、これまで「対照群(何もしなかった群)」との比較が困難であった現実世界のデータを用い、統計学的な手法によってバイアスを極限まで排除した点にあります。これまでの多くの報告は、成功例のみを抽出した症例報告や、分母が不明確なアンケート調査に依存していました。しかし、本研究は日本国内25箇所の三次救急医療機関を網羅する前向き観察研究であり、バイスタンダー(現場に居合わせた人)による介入の有無が、最終的な転帰にどう関与するかを科学的に証明したのです。
研究プロトコール概要(PECO)
本研究の骨格を理解するために、PECOに基づいたプロトコールを以下に簡潔にまとめます。
P(対象者):2020年4月から2023年3月の間に、気道異物閉塞(FBAO)によって救急搬送された18歳以上の患者407名。年齢中央値は81歳。
E(曝露・介入):現場のバイスタンダーによる初期対応としての「腹部突き上げ法(ハイムリック法)」または「背部叩打法」。
C(比較対象):バイスタンダーによる介入が全く行われなかった群。
O(アウトカム):主要評価項目は30日後の良好な神経学的予後(Cerebral Performance Category 1または2)。副次評価項目として、30日生存率および異物除去の成功率を設定。
統計手法には、交絡因子を調整するために逆確率重み付け付きプロペンシティスコア(IPTW)が採用されました。患者の年齢、性別、摂食機能、発生場所、目撃者の有無、救急隊の到着時間といった多岐にわたる変数を揃えることで、純粋な介入効果の抽出が試みられています。
主な結果
解析の結果、浮かび上がったのは、バイスタンダーによる介入がもたらす圧倒的な「脳保護効果」でした。
患者背景と気道異物の主な種類
患者の半数以上は日常生活動作が自立していませんでしたが、4分の3は食事は自立していました。発生場所の上位は自宅(57%)で、次いで介護施設(19%)、飲食店(10%)でした。
窒息の主な原因は、
・米:24%
・肉:17%
・餅:16%
異物の種類(餅、その他の食品、食品以外)によってアウトカム(生存率や神経学的予後)が異なるかどうかは、明確には示されていません。
主要評価項目:30日後の良好な神経学的予後
まず、主要評価項目である良好な神経学的予後についてです。背景因子を調整した後、何もしなかった群の良好な予後達成率が15%から16%に留まったのに対し、腹部突き上げ法を受けた群では38%、背部叩打法を受けた群では31%という数値が示されました。これは統計学的に極めて有意な差であり、リスク差に換算すると、腹部突き上げ法で22パーセント、背部叩打法で15パーセントの改善が認められたことになります。
30日生存率
特筆すべきは、30日生存率における背部叩打法の圧倒的な寄与です。調整済みハザード比(HR)において、背部叩打法は0.52という数値を叩き出しました。これは、背部叩打法を行うことで、死亡リスクが約半分にまで減少することを示唆しています。一方で、腹部突き上げ法における調整済みハザード比は0.73であり、生存率の向上に関しては統計的な有意差を証明するまでには至りませんでした。
この結果の乖離は、臨床的に非常に重要な視点を提供しています。なぜ腹部突き上げ法は脳を守る効果は高いのに、生存率の向上では背部叩打法に一歩譲ったのでしょうか。
生理学的考察と安全性のトレードオフ
異物除去の成功率は差がない
論文中では、この現象を解釈するためのいくつかの鍵が示されています。まず、異物除去の成功率ですが、腹部突き上げ法で30パーセント、背部叩打法で27パーセントと、両者の間に大きな差はありませんでした。それにも関わらず生存率に差が出た背景には、手技の「安全性」と「適応」が関係している可能性があります。
安全性に差がある?
腹部突き上げ法、いわゆるハイムリック法は、急激に腹圧を高めることで横隔膜を押し上げ、肺内の残気を利用して異物を排出させる強力な手技です。しかし、本研究の対象者の年齢中央値は81歳でした。高齢者の脆弱な組織に対して強大な外力が加わった際のリスクは看過できません。
実際に、本研究において腹部突き上げ法を実施した群では4パーセントの割合で「気胸」という合併症が報告されています。過去の文献では大動脈解離や胃破裂、脾破裂といった致死的な合併症も報告されており、救命という目的の裏側に、身体的ダメージという代償が潜んでいる可能性を否定できません。
これに対し、背部叩打法は手技が簡便であり、合併症の報告も極めて少ないのが特徴です。高齢者という対象を考慮したとき、侵襲性の低さと確実な効果を兼ね備えた背部叩打法が、生存率において優位な結果を示したのは、極めて妥当な帰結と言えるかもしれません。
窒息は緊急事態:数分という短い時間軸
分子生物学的な視点からは、低酸素状態が脳細胞に与える不可逆的なダメージを想起する必要があります。脳細胞は血流停止、あるいは酸素供給の途絶から数分でATPが枯渇し、イオンポンプの破綻、細胞内カルシウム濃度の上昇、そして活性酸素種の発生を伴うカスケードへと突入します。本研究が示した「良好な神経学的予後」の向上は、わずか数分という短い時間軸の中で、バイスタンダーによる不完全ながらも物理的な異物除去の試みが、肺内の換気予備能を辛うじて維持し、クリティカルな脳への酸素供給を支えたことを証明しています。
本研究の限界(Limitation)
本研究は極めて質の高いデータを提供していますが、いくつかの限界も存在します。
第一に、本研究の対象は「救急搬送された症例」に限られている点です。つまり、現場でバイスタンダーが完璧に異物を取り除き、救急車を呼ぶ必要がなかったような「真の成功例」は、このデータには含まれていません。このため、報告されている成功率(約30パーセント前後)は、実際の現場での成功率よりも低く見積もられている可能性があります。
第二に、介入の順番や組み合わせの影響を完全には排除できていない点です。現実の現場では、まず背中を叩き、ダメならお腹を突き上げるという連続的な動作が行われることが一般的です。本研究では「最初に試みた介入」を主軸に解析していますが、複合的な介入が最終結果に与える影響については、今後のさらなる解析が待たれます。
第三に、高齢者に偏ったデータである点です。年齢中央値が81歳であるため、この結果をそのまま若年者や小児に当てはめることには慎重であるべきです。組織の弾力性や合併症のリスクは、年齢層によって大きく異なるからです。
明日からの実践
この論文から得られた科学的知見を、私たちはどのように日常生活、あるいは臨床現場に活かすべきでしょうか。読者諸氏には、以下の3つの行動指針を提案します。
第一に、迷わず「背部叩打法」を選択する勇気を持つことです。生存率における有意な寄与と、合併症リスクの低さは、本研究における最大の収穫です。特に高齢者が相手であれば、まずは力強く肩甲骨の間を叩くことが、最善の初手となります。
第二に、一刻も早い介入の開始です。本研究で介入なし群の予後が著しく悪かったことは、現場での空白の時間が死に直結することを如実に物語っています。手技の完成度を気にするあまり、躊躇して時間を浪費することは、脳細胞の死を座して待つのと同じです。
第三に、腹部突き上げ法を選択した際の「術後評価」の徹底です。もしあなたが医師であれば、あるいはバイスタンダーとして腹部突き上げ法を行ったのなら、異物が取れた後の「安堵」で終わらせてはいけません。本論文が示したように、胸部や腹部の内臓損傷が隠れている可能性があります。救急搬送後、あるいは蘇生後には、CT検査等による医原性損傷のスクリーニングをルーチンに含めるべきでしょう。
最後に
医学は常に、不確実性との戦いです。しかし、MOCHIレジストリのような地道なデータの積み重ねが、その不確実性の霧を晴らし、私たちに確かな指針を与えてくれます。窒息という、数分で決着がつく緊急事態において、そばに居合わせた我々に何ができるのか。この論文が大いなるヒントになります。
参考文献
Igarashi, Y., Norii, T., Nakae, R., Tagami, T., Sklar, D. P., & Yokobori, S. (2025). Efficacy of abdominal thrusts and back blows for patients with foreign body airway obstruction: MOCHI registry analysis. Resuscitation Plus, 25, 101016. https://doi.org/10.1016/j.resplu.2025.101016


