はじめに:性と心血管リスクをめぐる誤解と実態
性的活動は人間の基本的な生理行動でありながら、特に心血管疾患のリスクを抱える人々にとっては、長らく「負担の大きい行動」として敬遠されがちでした。1950〜60年代には、性行為中の心拍数(HR)や血圧(BP)が激しく上昇し、場合によっては致死的な心血管イベントを誘発するという報告が相次ぎました。たとえば、MastersとJohnsonは1966年に、性行為時のHRが180 bpmに達することもあると述べています。
しかし、それらの研究の多くは不自然な実験室環境下で行われており、日常的な性生活の負荷とはかけ離れたものでした。近年では、携帯型モニタリング技術の進展により、実生活下でのデータ取得が可能となり、性行為中の心血管応答に対する再評価が進められています。本研究は、その文脈の中で、健常成人を対象に自然環境下で行われた意義深いものです。
研究デザインと参加者:実生活に即した方法論の特長
本研究は、中国・北京在住の健康な既婚男女49名(男性22名、女性27名、平均年齢約40歳)を対象とし、携帯型の24時間血圧・心電図モニタを用いて性的活動中の生理指標を記録しました。性交の実施体位は「男性上位」で統一され、各性的フェーズ(興奮期・プラトー期・オーガズム期・消退期(Excitement、 Plateau、Orgasm、Resolution))において、手動での血圧測定および連続心電図記録が行われました。
測定は午後9時から翌午前1時の間に、男性上位位で自然に行われた性行為を対象とし、各段階の開始時とオーガズム後の10分間隔で3回、さらにオーガズム後60分まで血圧を手動測定しました。心電図は自動的に記録され、収縮期血圧(SBP)、拡張期血圧(DBP)、心拍数(HR)、二重積(DP)、および心拍変動(SDNN、LF/HF)のパラメータが分析されました。
参加者は事前に医師による問診、身体検査、臨床検査を受けており、心疾患、糖尿病、高血圧、精神疾患などの既往がないことを確認されたうえで登録されています。また、オーガズムが確認できない女性のデータは除外され、分析には厳密なデータ管理が行われました。
主な結果:軽度で一過性の心血管反応
血圧(BP)の変化
男性では、収縮期血圧(SBP)はベースラインの120.1 mmHgからプラトー期に141.4 mmHgまで上昇し、その後オーガズム期には128.2 mmHgに下降、10分後にはベースライン近く(119.1 mmHg)に戻りました。
女性も同様で、SBPは109.4 mmHgから121.7 mmHg(プラトー期)へと上昇し、オーガズム時には121.2 mmHgでした。10分後には106.7 mmHgに低下しています。
これにより、ピークBPはオーガズム期ではなくプラトー期に出現することが明らかとなり、従来の報告と一線を画しています。
心拍数(HR)の変化
心拍数は、オーガズム期にピークを迎えました。男性は75.4 bpmから96.4 bpmへ、女性は71.4 bpmから90.2 bpmまで上昇しましたが、その後は速やかに下降し、20分以内にはベースラインに復帰しています。
この値は、過去の研究で報告されていた125 bpmや140-180 bpmに比べて著しく低く、日常的な身体活動の範囲内と言えます。
二重積(DP:SBP × HR)
心臓酸素消費量の指標であるDPは、性行為中の心負荷を評価するうえで極めて重要です。男性ではベースラインで9,134 mmHg×bpmだったDPが平坦期に12,964 mmHg×bpm、オーガズム期に12,404 mmHg×bpmまで上昇しましたが、10分後には9,555 mmHg×bpmに低下しました。
女性でも同様にDPは一過性の上昇にとどまり、60分後にはむしろベースライン(7,841)より低値(7,073)を示しました。
血圧と心拍数のピークが異なるタイミングで発生したため、二重積(DP)の上昇が緩やかで、急激な増加が見られませんでした。
このように、DPの上昇は急峻ではなく、心拍と血圧のピークタイミングがずれることで心臓への急激な負荷が回避されていることが示唆されます。
※ 参考 二重積(DP; Double Product)
二重積(DP)= 心拍数(HR,拍/分)× 収縮期血圧(SBP,mmHg)の一般的な基準として、以下のように解釈されます:
10,000以下
・安静時レベル
・心筋への負荷が極めて低い状態
10,000-20,000
・軽度~中等度の身体活動(歩行、家事など)
・当研究では性活動がこの範囲に該当
・心血管リスクの低い患者で許容可能な範囲
20,000-30,000
・高強度運動(階段昇降、ジョギングなど)
・安定した心血管疾患患者の運動上限目安
30,000以上
・極めて高い心筋酸素需要
・虚血性心疾患患者では危険域
・トレッドミル最大負荷時に観察
心拍変動(HRV)と自律神経活動
自律神経機能の指標であるSDNN(心拍間隔の標準偏差)は、は性行為中の主要な時点でベースラインと有意差がありませんでしたが、性交後にやや低下し、オーガズム後の男性では特に20〜60分後に有意差を持って減少しました(例:ベースライン48.6ms→60分後33.7ms)。また、交感・副交感神経のバランスを示すLF/HF比は、女性でオーガズム後に有意な低下を示し(例:2.80→1.46)、副交感神経活動の相対的優位を示していました。
これは、性交後の身体が「興奮」から「鎮静」モードへと切り替わる、自律神経系の生理的調整過程を反映していると考えられます。とくに女性では、リラクゼーションや眠気といった変化が顕著に現れやすいことが示唆されます。
他研究との比較と本研究の新規性
過去の研究(例:Masters & Johnson 1966、Bohlen et al. 1984)は、性行為中のHRやBPが運動負荷試験の最大値に匹敵すると報告していましたが、それらはほとんどが実験室や医療施設内での観察であり、心理的・身体的な緊張が大きく影響していたと考えられます。
本研究の新規性は、次の3点にあります。
- 実生活下での測定(参加者の自宅、自然な体位)
- 男女両方を対象とした同時モニタリング(特に女性のデータが豊富)
- HRとBPのピークが一致しない事実を明確に示した点
これにより、「性交は危険な身体的ストレスである」という通念に対し、現実的で緩やかな心血管反応を示す反証データが提供されました。
日常生活への応用:健康管理の新たな視点
DPやMET(代謝当量)換算値から判断しても、今回の研究では性行為による心負荷は日常的な中等度運動(例:早歩きや軽い階段昇降)と同等であり、極端な身体負荷ではないことが明らかです。特に、DPは最大でも13,000 mmHg×bpmにとどまり、心血管疾患患者の運動処方で許容されるレベル内です。
このことは、健常者にとって性行為が過度な心臓負担とはならないばかりか、むしろ安全かつ自然な活動であることを裏付けています。
性行為が適度な身体活動として位置づけられることから、心血管健康維持の一環として捉えることが可能です。特に、血圧と心拍数が短期間でベースラインに戻ることは、健康な人々にとって性行為が過度の負担にならないことを示唆しています。
医療従事者は、この研究結果を基に、患者に対してより現実的なアドバイスを提供できます。例えば、安定した心血管疾患患者に対して、性行為を過度に制限する必要がないこと、むしろ適度な身体活動として推奨できる可能性があることを説明できます。
また、家庭用の携帯型血圧計や心拍計を使用することで、個人が自身の反応をモニタリングする方法も考えられます。ただし、測定行為自体が性行為の自然な流れを妨げないよう、適切な方法を選択する必要があります。
結論
健康成人における性行為の生理的負荷が従来考えられていたよりも軽度であり、日常的な身体活動の範囲内であることを明確に示しました。
この研究は、性行為を過度に危険視する従来の見方を改め、よりバランスの取れた理解を促進するものです。ただし、心血管疾患患者への適用にはさらなる研究が必要であり、個別の医学的評価が不可欠です。
参考文献
Tan XR, Lv Y, Yang DZ, Chen XJ. Changes of blood pressure and heart rate during sexual activity in healthy adults. Blood Press Monit. 2008;13(4):211–217. doi:10.1097/MBP.0b013e3283041b35
追記:性反応周期の各相(Excitement、 Plateau、Orgasm、Resolution):定義
性反応周期は、MastersとJohnsonによって提唱されたモデルで、以下の4つの相に分類されます。各相の定義と境界を詳細に説明します。
興奮期(Excitement Phase)
定義:性的刺激に対する最初の反応で、心理的・身体的覚醒が始まる段階です。
主な特徴:
- 男性:陰茎勃起、睾丸の挙上
- 女性:膣潤滑、陰唇の腫脹、乳房の腫脹
- 共通:心拍数・血圧上昇(20-40%増)、呼吸促進
境界:
開始:性的刺激(身体的/心理的)の認識
終了:性的興奮が持続的で安定した状態(プラトー期への移行)
プラトー期(Plateau Phase)
定義:興奮が最高レベルに達する直前の持続的な高揚状態です。
主な特徴:
- 男性:尿道球腺液の分泌、睾丸は完全に挙上(勃起サイズの最大)
- 女性:膣外側1/3の腫脹(”orgasmic platform”形成)、子宮の完全挙上
- 共通:筋緊張の増加、心拍数(100-175bpm)、血圧(収縮期20-100mmHg上昇)
境界:
開始:興奮が持続的安定状態に達した時点
終了:オーガズムの不可逆的な開始(不随意筋収縮の始まり)
オーガズム期(Orgasm Phase)
定義:性的緊張の頂点に達した時の不随意的な身体的解放です。
主な特徴:
- 男性:射精(2段階:①精液の前立腺部尿道への移動、②尿道の律動的収縮)
- 女性:膣と子宮の律動的収縮(3-15回、0.8秒間隔)
- 共通:筋収縮(骨盤筋群)、心拍数ピーク(110-180bpm)、血圧ピーク(収縮期40-100mmHg上昇)
境界:
開始:不随意収縮の開始
終了:収縮の終了と緊張の急激な減少
消退期(Resolution Phase)
定義:身体が性的興奮前の状態に戻る段階です。
主な特徴:
- 男性:不応期(若年で数分~高齢で数時間)
- 女性:連続オーガズムの可能性
- 共通:心拍数・血圧の正常化、筋緊張の緩和
境界:
開始:オーガズム後の緊張減少開始
終了:身体が完全に安静状態に戻った時点