はじめに
嗅覚は、食事の楽しみや危険察知、そして社会的交流に関与する、極めて多面的な感覚です。しかし、この「においを感じる力」は、私たちが思う以上に命の長さと密接に結びついていることがわかってきました。2020年にVan RegemorterらがFrontiers in Neuroscienceに発表したレビュー論文「Mechanisms Linking Olfactory Impairment and Risk of Mortality」は、嗅覚障害と死亡リスクの関係を包括的に整理し、その背後にある神経生物学的機構を探った報告です。本稿では、その内容をもとに、嗅覚が「生命予測因子」として持つ意味を解説します。
高齢化とともに進む嗅覚の衰え
嗅覚障害(olfactory impairment: OI)は加齢に伴って顕著に増加し、65〜80歳の50%以上、80歳以上では75%に達します。5歳年を重ねるごとに嗅覚障害のオッズ比は1.55とされ、年齢そのものが強いリスク因子です。嗅神経は外界に直接さらされる唯一の脳神経であり、空気中の汚染物質や感染、外傷などの影響を受けやすい構造を持ちます。加齢により嗅上皮や嗅球の再生能が低下し、細胞のターンオーバーが鈍化することも大きな要因です。
また、遺伝的背景も関与します。脳由来神経栄養因子(BDNF)のVal66Met多型やアポリポ蛋白E(ApoE)ε4対立遺伝子の保有者は、嗅覚機能の加齢性低下が顕著であり、同時に認知機能の衰えを伴うことが知られています。特にApoE ε4はアルツハイマー病(AD)の危険因子でもあり、この遺伝的素因が嗅覚障害と神経変性を橋渡ししている可能性が指摘されています。
嗅覚障害と死亡リスク:疫学が示す強固な関連
本論文では、40歳以上の13,366人を対象にした7件の縦断研究を統合的に検討しています。いずれの研究でも嗅覚障害は全死亡リスクの有意な上昇と関連しており、追跡期間は4〜13年でした。
代表的な研究では、無嗅覚(anosmia)を有する群の死亡オッズ比は3.4(95%信頼区間 2.0–5.6)と報告され、心血管疾患やがんよりも強い予測力を持つとされています(Pintoら, 2014)。また、嗅覚障害の重症度と死亡率には明確な用量反応関係が認められました。
さらに、死因別に解析したLiuら(2019)の研究では、嗅覚障害と最も強く関連したのは認知症およびパーキンソン病関連死であり、これらの疾患が嗅覚障害による死亡リスク上昇の22%を媒介することが示されました。嗅覚障害が単なる「感覚の衰え」ではなく、脳内の神経変性過程の早期サインであることを明確に示しています。
嗅覚喪失が行動を通じて健康を蝕むメカニズム
嗅覚の喪失は、食行動、危険察知、社会的交流という3つの基本的生活要素に影響を与えます。
食行動の変化
まず栄養摂取への影響です。嗅覚と味覚は密接に連動しており、嗅覚障害により食欲低下や食事の楽しみが失われると、結果的に低栄養や体重減少を招きます。Gopinathら(2016)は、高齢女性で嗅覚障害を有する群が5年間で有意に食事品質を低下させたことを報告しています。また、Liuら(2019)の媒介分析では、体重減少が嗅覚障害と死亡率上昇の6〜11%を説明しました。
危険察知の喪失
次に危険察知機能の喪失です。米国調査では70歳以上の20〜30%がガス漏れや煙の匂いを識別できず、嗅覚障害者は火災やガス事故などの危険事象を2〜3倍多く経験しています(Hoffmanら, 2016)。
社会的交流の減少
さらに社会的孤立と精神的健康も重要な要素です。嗅覚障害者では抑うつ傾向や社会的接触の減少が認められ、特に女性ではこの孤立が死亡リスクの一部を媒介するとされています(Leschak & Eisenberger, 2018)。このように、嗅覚喪失は単なる感覚の欠損ではなく、社会的行動と心理的安定性を通して全身の健康を侵食することが明らかになりました。
神経変性疾患との交差点
嗅覚障害はADやPDの最も早期の臨床的サインの一つであり、診断の5年以上前から出現することがあります。ADにおいては軽度認知障害(MCI)の段階ですでに嗅覚障害がみられ、MCI患者の約70%がADに進展するとされています。嗅覚障害を有するMCI患者はAD発症率が有意に高いことも報告されています。
本レビューでは、7つの研究のうち少なくとも3件が、認知機能を補正しても嗅覚障害と死亡率の関連が消失しないことを確認しています。これは、嗅覚障害が認知症発症以前の神経変性を示す「プレクリニカルマーカー」であることを示唆しています。
神経病理学的には、嗅球・嗅皮質はADやPDの初期病変の主座であり、タウやαシヌクレインの蓄積が早期から確認されています(Braak & Del Tredici, 2017)。嗅覚障害を通して脳の変性過程を“嗅ぎ取る”ことが可能になりつつあるのです。
脳の可塑性低下と加速的老化
嗅覚系は成人でも神経新生が続く希少な系です。嗅上皮では幹細胞から嗅神経細胞への分化が、嗅球では側脳室からの神経前駆細胞移動によって新しい介在ニューロンが供給されます。これらのプロセスが加齢や環境要因により低下すると、嗅覚機能も失われます。
ヒトにおいても嗅球体積は嗅覚機能と相関し、嗅覚訓練によって回復し得ることが示されています。Sorokowskaら(2017)は、嗅覚訓練が高齢者の嗅覚能力を有意に改善し、脳皮質の厚みを増すことを報告しました。この「嗅覚可塑性」は脳全体の再生能力を反映する指標と考えられ、OIは神経再生能の低下=生理的老化のマーカーとして機能している可能性があります。
視覚や聴覚障害と異なり、嗅覚障害のみが死亡率上昇と独立して関連する点も、嗅覚が単なる感覚ではなく「脳の健康度」を反映することを裏付けています。
全身疾患・代謝・炎症との関連
嗅覚障害は糖尿病、甲状腺疾患、慢性腎不全など多くの全身疾患と併存しますが、これらを補正しても死亡リスクとの関連は維持されました。すなわち、嗅覚障害は「不健康の結果」ではなく、独立した死亡リスク因子です。
ただし、Liuら(2019)は興味深い観察を報告しています。嗅覚障害と死亡の関連は、基礎疾患がない「健康良好群」でむしろ強く、表面上健康に見える高齢者に潜在する神経変性や慢性炎症を反映している可能性を示唆しています。
また、炎症マーカー(CRP, IL-6)や動脈硬化指標(IMT)を補正しても関連は持続しており、単純な炎症説では説明できません。嗅覚障害の発症を減少させる要因として、身体活動やスタチン使用が挙げられています。スタチンは脳内で酸化ストレスを抑制し、内皮機能を改善することから、嗅球レベルでの保護効果を持つと考えられます。
環境曝露:外界から脳への“匂いの毒”
嗅神経は外界と中枢神経を直接つなぐ唯一の経路であり、大気汚染や金属化合物などの神経毒が嗅上皮から脳に侵入する可能性があります。実際、メキシコシティの高汚染地域では、若年層の嗅球にアルツハイマー型病理やαシヌクレインの沈着が認められています(Calderon-Garciduenasら, 2018)。このように、嗅覚障害は環境毒性と神経変性を結ぶ「警鐘」としても機能しているのです。
臨床的・実践的意義
嗅覚障害は患者自身が自覚しにくく、医療現場でも軽視されがちですが、この研究群が示すように、嗅覚は生命予後に直結する生理指標です。嗅覚低下を訴える高齢者では、認知機能評価、栄養状態、社会的つながりの確認が不可欠です。また、嗅覚訓練(香りを意識的に嗅ぐリハビリテーション)は、嗅覚回復だけでなく、脳の可塑性維持、精神的健康の改善にも寄与する可能性があります。明日からできる行動として、患者や自身の嗅覚変化に注意を払い、早期のスクリーニングを行うことが、神経変性疾患の早期介入やフレイル予防につながります。
Limitation
このレビューにはいくつかの制約があります。死因別解析を行った研究は1件(Liuら, 2019)のみであり、嗅覚障害と特定疾患死の因果関係は明確ではありません。また、嗅覚評価法や追跡期間が研究間で異なり、薬剤使用や環境要因といった交絡因子の統一的制御が困難でした。さらに、嗅覚障害が神経変性疾患を介して死亡に至る経路の直接的証明はまだ得られていません。
結論
嗅覚障害は高齢者における独立した強力な死亡予測因子であり、その背景には神経変性疾患の前駆的病理、脳の可塑性低下、加齢に伴う生理的脆弱化が複合的に関与しています。嗅覚という感覚は、単なる「匂いを嗅ぐ力」ではなく、脳と身体の生命力そのものを映し出す“健康の鏡”なのです。嗅覚を守ることは、すなわち脳と生命を守ることに他なりません。
参考文献
Van Regemorter V, Hummel T, Rosenzweig F, Mouraux A, Rombaux P, Huart C. Mechanisms Linking Olfactory Impairment and Risk of Mortality. Front Neurosci. 2020;14:140. doi:10.3389/fnins.2020.00140

