序論
喘息や慢性閉塞性肺疾患(COPD)の治療において、吸入薬は欠かすことのできない存在です。とりわけメータードーズ吸入器(MDI)は、その使いやすさと即効性から広く処方されています。しかし、このMDIには強力な温室効果ガスであるヒドロフルオロアルカン(HFA)が推進剤として使用されており、気候変動への影響が無視できない規模で存在していることが近年注目されています。本論文は、2014年から2024年にかけて米国で使用された吸入薬の温室効果ガス排出量を網羅的に分析したものであり、環境負荷の「見えにくい部分」に光を当てた点で非常に新規性の高い研究です。
方法
研究は連続横断的解析の手法を用い、米国全土の外来処方データを対象にしました。具体的には、Symphony Health Metysデータベースを用いて、喘息およびCOPD適応で承認された全吸入薬を抽出しています。それぞれの製剤について、薬効分類、デバイスタイプ(定量噴霧式吸入器MDI(Metered Dose Inhaler)、ドライパウダー吸入器[DPI]、ソフトミスト吸入器[SMI])、推進剤の種類、ブランド・ジェネリックの別、製薬企業、保険種別、薬剤給付管理会社(PBM)などの属性を整理しました。
排出量は二酸化炭素換算(CO2e)で評価され、推進剤の重量と地球温暖化係数をもとに計算されています。また、社会的コスト(Social Cost of Carbon)は米国環境保護庁(EPA)の基準を用い、排出がもたらす社会全体の損失を金銭的に評価しました。
参考:日本では、、、
MDI:サルタノール、オルベスコ、フルタイドエアゾールなど
DPI:アドエア、シムビコート、レルベア、テリルジーなどディスカス/タービュヘイラー/エリプタ製剤群
SMI:スピリーバレスピマット、スピオルトレスピマットなど
結果
解析対象は2014〜2024年の10年間に米国で販売された16億本の吸入器でした。内訳はMDIが11億本(70%)、DPIが4.1億本(26%)、SMIが0.6億本(4%)であり、依然としてMDIが主流であることが示されました。
総排出量は2,490万トンCO2eに達し、2014年の年間190万トンから2024年の230万トンへと24%増加していました。平均すると、1本あたりの排出量はMDIで22.1 kg CO2e、DPIおよびSMIでは0.8 kg未満と、MDIが圧倒的に高い環境負荷を示しました。
薬剤別に見ると、アルブテロール(57%)、ブデソニド/ホルモテロール(23%)、フルチカゾン(6%)の3種類で全排出量の87%を占めていました。製薬企業別ではGSKが41%、アストラゼネカが24%、テバが21%を占め、上位4社で85%を占めていました。
社会的コストに換算すると、10年間で57億ドル(下限35億ドル〜上限100億ドル)の損失と推定され、これは年間で数億ドル規模の負担に相当します。
新規性と臨床的含意
本研究の新規性は、単なる推定や一部保険制度に限定した調査ではなく、米国全体の外来処方データを用いて包括的に10年間の排出実態を可視化した点にあります。特に、従来の研究が見落としていた薬剤別の詳細な排出量や製薬企業別・保険制度別の負荷構造まで分析したことは、政策的にも実務的にも大きな意味を持ちます。
臨床現場にとって重要なのは、治療の質を落とさずに排出量を減らせる選択肢が存在することです。例えば、同じアルブテロールでも吸入器の仕様によって1本あたり10.4 kg CO2eから28.7 kg CO2eまで差があり、処方選択で環境負荷を数倍変えられることが示されました。また、DPIやSMIへの切り替えにより、92%の排出削減が理論的には可能であることが明らかになりました。
国際比較と今後の展望
米国は欧州諸国と比較してMDI依存度が高く、スウェーデン型の処方パターンを導入すれば62%削減が可能である一方、ギリシャ型にとどまれば15%削減にとどまると試算されています。この差は医療制度の設計や処方慣行の違いに由来しており、制度改革の余地が大きいことを示唆しています。
さらに注目すべきは、ICS-ホルモテロール配合剤のDPI版が米国市場に存在しないという点です。国際的ガイドラインは救急治療として単剤β刺激薬よりもICS-ホルモテロールを推奨していますが、米国ではその低排出製剤が未承認のために患者と環境の双方に不利益をもたらしています。こうした薬剤の導入は、臨床的にも環境的にも極めて重要な課題です。
制度と経済の課題
新規低GWP推進剤を使用したMDIは開発が進んでいますが、過去のCFC→HFA移行時にはコストの急騰と特許保護による市場独占が問題となりました。今回も同様の問題が再発するリスクがあり、低価格なジェネリックの早期参入を促す政策的介入が不可欠です。さらに、主要PBMによる処方選択の集中度が高いため、個々の医師や患者の努力だけでは変化が難しく、制度全体の改革が必要であることも浮き彫りになりました。
Limitation
この研究にもいくつかの限界があります。第一に、解析対象は外来処方のみであり、入院や軍事医療での使用(全体の<4%)は含まれていません。第二に、ネブライザーなど他の治療手段による排出量は評価されていません。第三に、他国の処方パターンをそのまま米国に適用することは市場環境の違いから困難である点です。最後に、吸入薬全体の排出量は米国医療全体の温室効果ガス排出量の0.5%未満にすぎず、あくまで全体の一部であることを忘れてはなりません。
結論と実践への示唆
吸入薬は臨床的に不可欠である一方で、気候変動への影響を無視できない規模で抱えています。医師や患者ができる実践的な一歩は、処方の際に可能であればDPIやSMIを選ぶこと、同一薬効内で排出強度の低い製品を選ぶことです。さらに制度的には、低排出製剤の導入促進、PBMを通じたフォーミュラリ変更、価格政策の適正化が求められます。
この研究は、呼吸器疾患の治療と地球規模の環境課題が直結していることを強調しており、臨床と政策双方にアクションを促すエビデンスを提供しています。
参考文献
Feldman WB, Han J, Raymakers AJN, Furie GL, Chesebro BB. Inhaler-Related Greenhouse Gas Emissions in the US: A Serial Cross-Sectional Analysis. JAMA. Published online October 6, 2025. doi:10.1001/jama.2025.16524