(米国、カナダ)
はじめに
アンジャ・クルスティッチらによる2025年の研究は、現代の共働き家庭に潜む「目に見えない負担」が、いかにして女性の職業人生を根底から揺るがしているのかを、心理学的かつ統計的な手法で鮮やかに描き出しました。本稿では、この「第3のシフト」と呼ばれる認知労働の正体と、それがもたらすキャリアへの破壊的な影響について、詳細に解説します。
かつて社会学者のアーリー・ホックシールドは、外での仕事の後に待っている家事や育児を「第2のシフト」と呼びました。しかし、本論文が焦点を当てているのは、そのさらに奥深くに隠れた「第3のシフト」、すなわち認知労働です。これは単に料理をしたり洗濯をしたりする物理的な行動ではなく、家庭という組織を維持・管理するために頭脳をフル回転させる精神的な活動を指します。
この労働の最大の特徴は、その名の通り「目に見えない」ことにあります。パートナーがリラックスしている間も、女性の脳内では家庭内の無数のタスクがプログラミングされ、監視され続けています。本研究は、この不可視な負担が単なる家庭内の不満に留まらず、女性の離職意向を高め、キャリアに対するレジリエンス(回復力)を奪う決定的な要因であることを科学的に立証しました。
研究プロトコール:PECO
本研究の構造を理解するために、その研究デザインをPECOの枠組みで整理します。
P(対象者):アメリカおよびカナダに居住する、異性愛者の共働きカップルの男女計263名(女性52%、男性48%)。平均年齢は37歳、平均勤続年数は6.42年です。
E(要因):家庭内における認知労働(予測、特定、決定、監視)の分担比率の不均衡。
C(比較):男性パートナーと比較した際の女性側の負担割合、および子供の有無による差異。
O(アウトカム):感情的消耗(emotional exhaustion)を媒介とした、離職意向の増大およびキャリア・レジリエンス(career resilience)の低下。
研究チームは、新型コロナウイルスのパンデミック初期である2020年4月から5月にかけて、7週間にわたる週次追跡調査を実施しました。このマルチレベル構造方程式モデリングを用いた分析により、一時的な感情ではなく、持続的な労働分担の不均衡がどのように心理的リソースを枯渇させるのかが解明されました。
認知労働を解剖する:4つの不可視なプロセス
認知労働とは具体的に何を指すのでしょうか。本論文では、ダミンガー(2019)の定義を援用し、以下の4つのフェーズに分類しています。
予測
第1は「予測」です。これは、家庭内で必要になる事態や問題を事前に察知することです。例えば、洗剤の残量が少なくなっていることに気づく、子供の予防接種の時期を思い出すといった活動です。
特定
第2は「特定」です。問題を解決するための選択肢を洗い出す作業です。どのブランドの洗剤が良いか、どのクリニックで予約が取れるかを調べるプロセスに相当します。
決定
第3は「決定」です。洗い出された選択肢の中から、最終的な解決策を選ぶフェーズです。
監視
第4は「監視」です。下された決定が適切に実行され、問題が解決したかを確認する作業です。
疲弊の根本原因
本研究のデータによれば、女性はこの4つのステップすべてにおいて、男性よりも有意に高い負担を担っています(b = 0.46, p < .001)。特に「予測」と「監視」という、最も不可視性が高く、かつ終わりのないフェーズに女性が偏重していることが、疲弊の根本原因となっています。
資源保存理論(COR)が解き明かす疲弊のバイオロジー
なぜ認知労働は、これほどまでに人を疲れさせるのでしょうか。そのメカニズムを説明するのが「資源保存理論(conservation of resources theory;COR)」です。これは、人間は限られた心理的・身体的資源(リソース)を持っており、ストレスにさらされるとその資源が失われ、さらなる資源の損失を防ぐために防御的な反応を示すという理論です。
認知労働は、物理的な家事とは異なり、時間的な境界線がありません。仕事中であっても、寝る前であっても、脳は常に家庭の管理業務をバックグラウンドで走らせています。この「常時オン」の状態は、脳のワーキングメモリを占有し続け、心理的資源を絶え間なくドレイン(排出)していきます。
このリソースの枯渇は、医学的には慢性的なストレス状態に近く、脳内のストレス応答系を疲弊させます。本研究では、認知労働の不均衡が「感情的消耗」※と強く相関していることを示しました(b = 0.42, p < .001)。資源が底をついた個体は、それ以上の損失を防ぐために、最もエネルギーを必要とする領域、すなわち「仕事」から距離を置こうとします。これが離職意向の正体です。
※感情的消耗(emotional exhaustion)とは、仕事や対人関係で限界を超えた心理的エネルギーを使い果たし、心身が慢性的に疲弊して無気力になるバーンアウト(燃え尽き)の中核症状です。
エビデンスが示す衝撃の相関:離職意向とレジリエンスの崩壊
本研究が提示した数値データは、極めて深刻な現状を物語っています。認知労働によって引き起こされた感情的消耗は、仕事に対する2つの大きな負の影響をもたらしていました。
離職意向の増大
まず、離職意向の増大です。感情的に消耗した女性は、現状の過負荷から逃れるための適応戦略として、離職を現実的な選択肢として捉え始めます。分析の結果、性別による離職意向の差は、認知労働の不均衡と感情的消耗を媒介とした間接効果(0.08, 95% CI [0.021, 0.147])として統計的に有意に確認されました。
つまり、女性のほうが離職を考えやすいのは事実ですが、その真の理由は『不平等に押し付けられた見えない家事負担』と『それに伴う心の燃え尽き』のせいであることが、統計データから間違いなく証明されたということです。
キャリア・レジリエンスの低下
さらに深刻なのが、キャリア・レジリエンスの低下です(b = -0.26, p < .001)。レジリエンスとは、困難な状況や変化に対して適応し、乗り越えていく力のことです。認知労働によってリソースを使い果たした女性は、職場で新たなプロジェクトに挑戦したり、変化に対応したりするための「心の余力」を失ってしまいます。これは、単に仕事をやめたいと思うだけでなく、キャリアアップを目指す意欲そのものが削がれていることを意味します。
親であることのパラドックス:育児負担と認知労働の交差
本研究の非常に興味深い発見の一つは、子供の有無によってストレスの主因が異なるという点です。
子供がいない女性の場合、離職意向やレジリエンス低下の直接的な引き金は「認知労働の不均衡」そのものでした。一方で、子供がいる女性(母親)の場合、感情的消耗の最大の予測因子は、認知労働以上に「育児負担の不均衡」にシフトしていました。母親たちは、育児という極めて物理的かつ精神的な高負荷タスクによって、すでにリソースの限界に達しているのです。
この発見は、ジェンダー平等へのアプローチが対象によって異なるべきであることを示唆しています。子供がいないからといって家庭内の負担が軽いわけではなく、彼女たちは「見えない管理業務」によって、キャリアを維持する力を奪われているのです。
本研究の革新性と学術的限界
本研究の最大の新規性は、これまで「主観的な不満」として片付けられがちだった認知労働を、職場のパフォーマンスや継続意欲に直結する「職業的リスク」として定義し直したことにあります。家庭内の不平等が、いかにして労働市場における男女格差を再生産しているのか、その心理的プロセスのミッシングリンクを埋めた功績は大きいです。
一方で、いくつかの限界も存在します。
第一に、データ収集がパンデミック初期という特殊な状況下で行われたことです。学校の閉鎖やリモートワークへの移行が、認知労働の総量を底上げしていた可能性があります。
第二に、本研究のサンプルが主に白人で高学歴の層に偏っている点です。社会経済的地位や文化的背景が異なる家庭では、認知労働のダイナミクスやその影響が異なる可能性があります。
第三に、本研究は自己報告に基づいているため、自分自身の貢献を高く評価し、パートナーの貢献を過小評価するというバイアスが入り込む余地があります。
明日から実践できる「第3のシフト」の脱却プラン
この論文の知見を、明日からの行動にどう活かすべきでしょうか。医療や組織管理に携わる知識人、あるいは当事者として実践できるステップを提案します。
まず行うべきは、認知労働の可視化、すなわち「メンタル・ロード・マッピング」です。家庭内の運営を、先述の「予測・特定・決定・監視」のフレームワークに当てはめてリスト化してください。単に「ゴミ出し」というタスクを書くのではなく、「ゴミ袋の在庫を確認し、ゴミ収集の日を把握し、分別のルールをチェックする」という認知プロセスを書き出すことが重要です。
次に、このリストを用いてパートナーと「管理権限の委譲」について話し合ってください。多くの家庭では、男性が「手伝うよ」と言いますが、これは管理権限(認知労働)を女性に残したまま、物理的タスクのみを請け負う発言です。一部のカテゴリーについては、予測から監視までの全プロセスをパートナーに完全に任せる「フル・オーナーシップ制」を導入することが、女性の脳内のワーキングメモリを解放する唯一の解決策です。
組織のリーダーであれば、女性社員の離職意向や意欲低下の背景に、こうした家庭内の「見えないOS」の過負荷がある可能性を認識してください。育児支援だけでなく、あらゆるライフステージの女性が直面するこの認知的な枯渇を理解し、心理的安全性を確保しながら、リソースを回復させるための柔軟な働き方を提案することが、優秀な人材の流出を防ぐ鍵となります。
認知労働という第3のシフトを解消することは、単なる家庭円満の秘訣ではありません。それは、女性が本来持っているキャリアの可能性を最大限に解放するための、極めて戦略的な投資なのです。
参考文献
Krstić, A., Shen, W., Varty, C. T., Lam, J. Y., & Hideg, I. (2025). Taking on the Invisible Third Shift: The Unequal Division of Cognitive Labor and Women’s Work Outcomes. Psychology of Women Quarterly, 49(2), 205-219. https://doi.org/10.1177/03616843251330284

