恐怖は本当に「血を凍らせる」のか:ホラー映画と凝固因子VIII上昇の科学

心臓血管

序論:言葉と科学の接点

「血が凍るような恐怖」という表現は、英語の bloodcurdling をはじめ、フランス語の à vous glacer le sang、ドイツ語の das blut in den Adern erstarrt など、世界各国の言語に存在します。中世から伝えられてきたこの比喩は、長らく文学的表現として扱われてきました。しかし、この言葉が単なる比喩ではなく、実際に血液の性質に変化をもたらす可能性はあるのでしょうか。本研究は、その問いに初めて実験的に挑んだユニークな臨床試験です。


研究デザインと方法

オランダ・ライデン大学医療センターで行われたこのクロスオーバートライアルには、30歳以下の健常な若年ボランティア24名が参加しました。参加者はホラー映画「Insidious(2010)」と教育的ドキュメンタリー「A Year in Champagne(2014)」を、それぞれ90分間、1週間以上の間隔をあけて視聴しました。14名はホラー映画から、10名は教育映画から視聴を開始し、順序を逆にすることで交差的に比較できるデザインとしました。

採血は各映画の前後15分以内に行われ、以下の凝固マーカーが測定されました。

  • 凝固因子VIII(Factor VIII, FVIII)
  • D-dimer
  • トロンビン-アンチトロンビン複合体(TAT)
  • プロトロンビン断片1+2

また、視覚的アナログスケール(VAS)により、映画視聴中に感じた恐怖を0~10で評価しました。


結果:恐怖は因子VIIIを上昇させる

結果は明確でした。ホラー映画は教育映画と比べて、参加者が有意に強い恐怖を感じていました(VAS差:平均5.4点、95% CI 4.7–6.1)。そして注目すべきは、凝固因子VIIIの変化です。ホラー映画視聴後には平均11.1 IU/dLの上昇(95% CI 1.2–21.0)が認められました。21名の解析対象のうち、12名(57%)が上昇を示し、教育映画ではわずか3名(14%)にとどまりました。

一方、D-dimer、TAT、プロトロンビン断片1+2には有意な変化はなく、血栓形成そのものには至らないことが示されました。つまり、恐怖は凝固系を「準備状態」に導くものの、最終的なトロンビン生成やフィブリン形成には結びつかないという結果でした。


分子生物学的背景

この現象の背景には、交感神経系の急性反応が考えられます。アドレナリンは血中の因子VIII濃度を上昇させることが古くから知られており(1968年の報告では、アドレナリン投与後に有意な上昇が確認されています)、恐怖によるカテコールアミン放出が同様の効果をもたらした可能性があります。また、バソプレシン誘導体であるデスモプレシンは、von Willebrand因子を放出させ、その結果として因子VIIIを増加させる作用を持つことが報告されています。

この研究では直接的に分子メカニズムを解明したわけではありませんが、恐怖という心理的刺激が分子レベルで凝固系を即座に変化させることを示した点に大きな新規性があります。


臨床的意義・考察

急性恐怖による凝固因子VIII上昇は、進化的に「外傷や出血への備え」として適応的な意義を持つ可能性があります。

因子VIIIの上昇は、決して小さな変化ではありません。疫学研究では、因子VIIIが10 IU/dL上昇するごとに静脈血栓症のリスクが17%増加するとされています。今回のホラー映画による上昇幅(11.1 IU/dL)は、このリスク増加と同程度の影響を持つ可能性を示唆しています。

もちろん、単発の映画鑑賞が血栓を引き起こすわけではありません。しかし、凝固能が亢進しやすい高リスク群(たとえば妊婦、経口避妊薬使用者、長時間の不動状態にある人)にとっては、強い恐怖体験が血栓症のリスクをわずかに増やす可能性を考慮してもよいでしょう。


新規性と先行研究との差異

過去には、慢性的な不安障害やバンジージャンプのような極端な身体的ストレス下で凝固能が高まることが報告されていました。しかしそれらは「持続的な心理的ストレス」や「自発的な身体活動」を伴う状況であり、純粋な「急性恐怖」の影響を切り分けることは困難でした。本研究の新規性は、あくまで静的な状況で急性の恐怖刺激を与えた際の凝固系変化を実証した点にあります。


Limitation

この研究にはいくつかの限界も存在します。

  1. 映画による恐怖の強度には限界があり、本当に「極限の恐怖」を再現できたわけではありません。
  2. 計画されたサンプルサイズ(23名)にわずかに届かず、解析は21名で行われました。
  3. 映画の順序は完全にランダム化されておらず、参加者の都合に基づいていました。
  4. 使用した恐怖評価スケールは本研究独自のもので、妥当性が十分に確立されていません。

これらの点から、結果の解釈には一定の慎重さが必要です。


実践的示唆

この研究は、日常生活に直接の危険を警告するものではありません。しかし、次のような実践的示唆を得ることができます。

  • 血栓リスクを持つ人は、長時間の不動と強い恐怖体験が重なる状況(例:長距離移動中のホラー映画視聴)を避ける方が安全かもしれません。
  • 恐怖体験が生理的に「出血への備え」として凝固系を活性化させる可能性を知ることは、進化生物学的にも人間の身体反応を理解する手がかりとなります。
  • 「血が凍るような恐怖」という比喩は、科学的にも部分的に裏付けられた表現であると理解でき、言葉の重みを再認識できます。

結論

本研究は、恐怖という心理的刺激が実際に凝固因子VIIIを上昇させることを示しました。血栓形成には至らないものの、心理と生理の境界にある現象を定量的に捉えた意義は大きく、長年の比喩表現に科学的根拠を与える結果となりました。言葉と生理学をつなぐこの発見は、人間の身体反応を理解するうえで新たな視点を提供しています。


参考文献

Nemeth B, Scheres LJJ, Lijfering WM, Rosendaal FR. Bloodcurdling movies and measures of coagulation: Fear Factor crossover trial. BMJ. 2015;351:h6367. doi:10.1136/bmj.h6367


タイトルとURLをコピーしました