受容体は「単なる入り口」ではなく「認知の主体」?:「We Are Our Receptors」

中枢神経・脳

序論

私たちが普段「認知」と呼んでいるものは、脳の皮質が情報を処理する結果として理解されてきました。しかし、2025年にArturo Tozzi氏が発表した論文「We Are Our Receptors: Rethinking Cortex and Cognition from the Sensory Periphery」(preprint)は、この従来の枠組みに揺さぶりをかける内容になっています。本論文は、脳の中心から周辺へという従来のトップダウン型の見方ではなく、感覚受容体そのものが認知を形作る主役であるという新しい視座を提示しています。これは、単なる哲学的提案ではなく、神経科学的・生理学的根拠に基づいた再構築である点に大きな新規性があります。

感覚受容体がもつ決定的役割

これまでの研究では、視覚・聴覚・触覚などの感覚情報は「入力」として脳に届けられ、その後の情報処理が私たちの知覚や認知を規定する、とされてきました。しかしTozzi氏は、受容体の段階で既に情報の性質が決定的に規定されていることを強調します。たとえば、網膜の視細胞が持つ波長選択性は、私たちが「見える」色の範囲を根本的に決めています。赤外線や紫外線を検出できる受容体を欠いているために、私たちはそれらの光を「存在しないもの」として扱わざるを得ません。つまり、世界の姿は脳ではなく、受容体の性質によって制約されているのです。

心拍と感覚の同期

論文の中で特に印象的なのは、心拍という身体内部のリズムが知覚に直接影響するという記述です。圧受容体(バロレセプター)が活動する収縮期に視覚刺激を提示すると、拡張期よりも検出率が低下することが報告されています。このわずか数百ミリ秒単位の差異は、無視できるほど小さいように思えますが、実際には繰り返し積み重なることで、私たちの世界体験全体に影響を及ぼします。時間感覚のわずかなずれや「瞬間が長く感じられる」現象も、この内的リズムとの同期によって説明可能です。つまり、脳が一方的に世界を再構築しているのではなく、身体内部のセンサーの拍動に合わせて世界が立ち現れるという構図です。

分子生物学的視点

Tozzi氏の議論を支える背景には、受容体レベルでの分子生物学的知見があります。たとえば、視覚においてロドプシン分子のコンフォメーション変化は光子の吸収によって瞬時に起こり、電気信号へと変換されます。この変換過程の速度や感度は遺伝子多型によって異なり、色覚異常や暗所視の違いを生みます。聴覚では有毛細胞の機械受容チャネルが周波数選択性を担い、その分子構造の差異が「聞こえる世界」の幅を規定します。つまり、「私たちの現実」は皮質の抽象的処理の結果ではなく、受容体の分子構造という物質的制約の中で形づくられているのです。

既存研究との違いと新規性

従来の神経科学では、「脳の可塑性」や「皮質の情報処理アルゴリズム」に焦点が当てられてきました。確かに脳はダイナミックに変化しますが、その土台を作る感覚受容体の役割は過小評価されがちでした。本論文の新規性は、受容体を「単なる入り口」ではなく「認知の主体」へと位置づけ直した点にあります。この視点は、たとえば人工知能やブレインマシンインターフェースの設計においても、入力デバイスそのものを「脳の外部にある皮質」とみなす発想を促す可能性があります。

実践的意義

この考え方は、臨床や日常生活においても示唆的です。たとえば、ストレスや不安で心拍が速くなると、収縮期の比率が高まり、感覚処理が偏る可能性があります。これは、不安障害やパニック発作で「世界が歪んで見える」体験の一因かもしれません。また、高齢者における感覚受容体の劣化(黄斑変性や有毛細胞の減少など)は、単なる知覚の低下ではなく、認知そのものの質的変化につながります。こうした理解に基づけば、認知症や精神疾患に対する新しいリハビリテーションの方向性を設計できる可能性があります。

Limitation

本論文は理論的枠組みを提示するものであり、直接的な実験データを多く示しているわけではありません。既存研究の再解釈に依拠する部分が大きく、臨床応用へとつなげるにはさらなる実証研究が必要です。また、受容体の役割を強調するあまり、皮質の情報統合の重要性を相対的に軽視するリスクもあります。したがって、この新しいモデルは従来の脳中心の見方を否定するのではなく、両者の相補的理解を促すものと捉えるのが妥当です。

結論

「We Are Our Receptors」というタイトルが示す通り、私たちの認知は受容体によって形作られています。この視点は、神経科学の基本的な枠組みを刷新するだけでなく、臨床実践や日常的な自己理解にも新しい道を開くものです。世界をどう感じ、どう生きるかは、脳の奥深くではなく、周縁にある小さな受容体の選択にかかっているのです。


参考文献

Tozzi A. We Are Our Receptors: Rethinking Cortex and Cognition from the Sensory Periphery. Preprints 2025, 2025010146. https://doi.org/10.20944/preprints202501.0146.v1

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