はじめに
現代社会において、職場での安全管理は企業の存続に関わる極めて重要な課題です。特に超高齢社会を迎えた日本において、労働者の身体機能維持と労働災害の防止は喫緊のテーマとなっています。転倒や墜落といった労働災害は、これまで主に作業環境の不備や加齢による身体能力の減退という文脈で語られてきました。しかし、私たちの日常生活に深く浸透している「嗜好品」や「生活習慣」が、実は足元の安定を脅かす静かなトリガーになっているとしたらどうでしょうか。本稿では、日本における大規模調査に基づき、加熱式タバコ(heated tobacco product ;HTP)の使用と職場での転倒リスクとの間に存在する、驚くべき関連性を解き明かした最新の知見について解説します。
研究の概要:ウェブベースの横断研究
本研究は、2023年9月から11月にかけて実施された、日本全国の労働者を対象とする大規模なウェブベースの横断研究(JACSIS研究)のデータを基にしています。研究の骨子をPECO形式で整理すると以下のようになります。
P(対象者):20歳から74歳までの日本の労働者18,440名(平均年齢43.2歳、女性43.9%)
E(暴露):加熱式タバコ(HTP)の使用、紙巻きタバコの使用、および睡眠時間や飲酒などの生活習慣
C(比較):タバコを一度も使用したことがない非喫煙者
O(アウトカム):過去1年間における職場での転倒の発生、および転倒に伴う骨折
この研究の最大の特徴は、単なる喫煙の有無だけでなく、近年急速に普及している「加熱式タバコ」に焦点を当て、さらに睡眠や基礎疾患、精神症状といった多角的な生活背景を統合して解析している点にあります。
対象者の職種
本研究では、職種を「産業セクター(Industry sector)」と「職業階層(Occupational class)」の2つの側面から分類しています。
産業セクター(Industry sector)の内訳
労働者が属する業界全体の分類です。
- ホワイトカラー・セクター: 7,204名(39.1%)
- 主に事務、専門職、技術職、管理職などが含まれる業界です。
- サービス・セクター: 6,323名(34.3%)
- 販売、飲食、医療・福祉、個人向けサービスなどが含まれる業界です。
- ブルーカラー・セクター: 4,913名(26.6%)
- 建設、製造、輸送、清掃などの現業作業が含まれる業界です。
職業階層(Occupational class)の内訳
個々の労働者が実際に従事している業務内容に基づいた分類です。
- サービス職(Service): 8,005名(43.4%)
- 全体の4割以上を占めており、接客や対人サービスに従事する層です。
- ホワイトカラー職(White collar): 5,286名(28.7%)
- オフィスワーク、専門的な知見を用いる業務に従事する層です。
- ブルーカラー職(Blue collar): 1,861名(10.1%)
- 現場での技能・労務作業に直接従事する層です。
- その他(Others): 3,288名(17.8%)
- 上記の分類に当てはまらない、あるいは多岐にわたる業務を指します。
日本の労働者18,440名における喫煙状況
本研究の対象となった日本の労働者18,440名における喫煙状況(タバコ使用状況)の内訳は以下の通りです。
全体のタバコ使用状況
調査対象者全体における使用ステータスの割合です。
- 非喫煙者(Never used): 56.9%(10,486名)
- 過去の喫煙者(Former used): 26.9%(4,967名)
- 現在の喫煙者(Current used): 16.2%(2,987名)
現在の喫煙者における製品別の内訳
「現在の喫煙者(16.2%)」が使用しているタバコ製品の内訳は、全対象者に対して以下の比率となっています。
- 紙巻きタバコのみ(Cigarette only): 9.7%(1,793名)
- 加熱式タバコのみ(HTP only): 3.6%(667名)
- 併用(Dual use): 2.9%(527名)
現在の喫煙者のうち、約4割(加熱式のみ 3.6% + 併用 2.9% = 6.5%)が加熱式タバコを使用している計算になります。論文内でも、日本のタバコ使用者全体の約40%が加熱式タバコを使用しているという先行報告に触れられています 。
加熱式タバコがもたらす1.78倍の転倒リスク
解析の結果、全対象者の7.3%にあたる1,338名が過去1年間に職場で転倒を経験しており、そのうち2.8%が骨折に至っていました。特筆すべきは、タバコ製品の種類によって転倒の発生比(Incidence Ratio;IR)が大きく異なる点です。
交絡因子を調整した最終的な解析において、現在タバコを使用している群は非喫煙者と比較して、職場での転倒リスクが1.36倍(95%信頼区間:1.20-1.54)高いことが示されました。これを製品別に詳しく見ると、驚くべき事実が浮き彫りになります。紙巻きタバコのみを使用している群ではリスクの有意な上昇が見られなかった一方で、加熱式タバコのみを専ら使用している群では、リスクが1.78倍(95%信頼区間:1.53-2.07)と顕著に高まっていたのです。また、紙巻きタバコと加熱式タバコを併用している「デュアルユーザー」においても、1.64倍という高いリスクが確認されました。これは、加熱式タバコという「煙の見えない製品」が、従来のタバコとは異なるリスクプロファイルを有している可能性を強く示唆しています。
転倒リスクにおける各要因の強度比較
本論文の最終的な調整モデル(すべての交絡因子を考慮した解析)において、職場での転倒リスクを高める主な要因とその発生率比(IR)は以下の通りです 。
- 仕事の機能障害(WFunスコア 21点から27点):2.83倍
- 10時間以上の長時間睡眠:2.77倍
- 仕事の機能障害(WFunスコア 28点から35点):2.41倍
- 加熱式タバコのみの使用(現在):1.78倍
- 5時間以下の短時間睡眠:1.78倍
- 糖尿病の罹患:1.72倍
- 紙巻きタバコと加熱式タバコの併用(現在):1.64倍
- 高血圧の罹患:1.60倍
このように、数値の上で最も強い相関を示したのは、個人が仕事においてどれだけ支障を感じているかを評価する「仕事の機能障害(WFunスコア)」の高い群、および「10時間以上の極端な長時間睡眠」をとっている群でした 。加熱式タバコ(1.78倍)は、短時間睡眠(1.78倍)や糖尿病(1.72倍)と同等の、極めて高いリスク要因として位置づけられています 。
仕事の機能障害(Work Functioning Impairment)とは、健康上の問題がある中で働いている際に、本来の業務遂行能力やパフォーマンスがどの程度損なわれているかを指す概念です 。
職種と業務内容による転倒頻度とリスク
職域における安全性を考える上で、職種別の転倒頻度とリスクの差を理解することは不可欠です。本研究では、実際の「業務内容(Occupational class)」が転倒の発生に極めて強い影響を与えていることが示されています。
過去1年間の転倒頻度(発生率)を職種別に見ると、以下の通りとなります。
・ブルーカラー職(技能・労務作業):12.8%
・ホワイトカラー職(事務・専門職):6.7%
・サービス職(接客・対人サービス):6.7%
このように、ブルーカラー職における転倒頻度は、他の職種の約2倍に達しています。
しかし、統計学的に他の要因(年齢、性別、喫煙状況など)を調整した「転倒リスク(IR)」で見ると、さらなる洞察が得られます。ブルーカラー職を基準(1.00)とした場合のリスク比は以下の通りです。
・ブルーカラー職:基準(1.00)
・サービス職:0.60(リスクが40%低い)
・ホワイトカラー職:0.62(リスクが38%低い)
興味深いことに、所属している業界(産業セクター)によるリスク差は統計的に有意ではありませんでしたが、実際に「現場でどのような作業に従事しているか(職業階層)」が転倒の決定的な要因となっています。このことは、物理的な危険が伴う現場ほど、わずかな身体機能の揺らぎが重大な事故に直結しやすい環境であることを示しています。
加熱式タバコでなぜ転倒が多いのか?
なぜ加熱式タバコの使用が、職場の転倒という物理的な事故を誘発するのでしょうか。論文内では、いくつかのメカニズムが推察されています。
ニコチンの生理作用
まず考慮すべきは、ニコチンが人体に及ぼす直接的な生理作用です。
ニコチンは摂取直後に血中濃度が急上昇し、中枢神経系に作用します。特に注目すべきは、耳の奥にある平衡感覚を司る「前庭システム」への影響です。
- ニコチン性眼振(Nicotine-induced nystagmus): 急激なニコチン摂取により、眼球が不随意に動く「眼振」が起きることがあります。これにより、一時的に視界が揺れたり、距離感が狂ったりします。
- 姿勢の不安定化: 論文内で引用されている先行研究によれば、喫煙習慣がある人は、非喫煙者に比べて重心の動揺(ふらつき)が大きいことが報告されています。
紙巻きタバコなら喫煙所から戻る間に収まっていたかもしれない「一時的なふらつき」や「視界の揺れ」が、加熱式タバコを作業現場近くで吸うことで、まさに「歩き出した瞬間」や「階段を降りる瞬間」に重なり、転倒を誘発する可能性もあります。
行動学的バイアス
さらに、行動学的な側面も見逃せません。加熱式タバコは従来の紙巻きタバコと比べて「クリーンである」というイメージが強く、屋内や作業場所の近くなど、従来であれば喫煙が控えられていた場所でも使用される傾向があります。
作業の合間にその場で「サッと吸う」ことが可能になったため、ニコチンが脳や平衡感覚に影響を与えるタイミングが、作業中の集中力が必要な瞬間と重なりやすくなっています。結果として転倒インシデントに繋がっているという「行動学的バイアス」の存在が疑われます。
製品そのもののクリーンなイメージが、使用に伴う「身体的リスク」への警戒心を解いてしまい(バイアス)、その結果としてニコチンによる生理的なふらつきが事故を招く、という負の連鎖を指しています。
成分評価における研究の限界
本研究の著者らは、紙巻きタバコと加熱式タバコが根本的に異なる製品であることを認識した上で、今回の調査ではこれらの製品から放出される個別の有害物質への曝露を評価できていないことを明記しています 。したがって、加熱式タバコにのみ含まれる成分が、特異的に転倒を誘発するという直接的な証拠はこの論文中には示されていません 。
生活習慣の相乗効果:睡眠、疾患、薬
本研究は、タバコ以外の生活習慣が転倒リスクをどれほど増幅させるかについても、具体的な数値を提示しています。
睡眠時間
特に睡眠時間は、転倒リスクと密接に関連していました。睡眠時間が6時間から9時間の群を基準としたとき、5時間以下の短時間睡眠群ではリスクが1.78倍に跳ね上がります。一方で、10時間以上の長時間睡眠群でもリスクが2.77倍となっており、睡眠の質や量の極端な偏りが注意力の低下や身体機能の不調を招いていることが推測されます。
基礎疾患
また、基礎疾患の有無も重要な因子です。糖尿病(リスク1.72倍)や高血圧(リスク1.60倍)、脂質異常症(リスク1.32倍)などの代謝性疾患を持つ労働者は、転倒のインシデンスが高いことが示されました。
睡眠薬や抗不安薬
加えて、睡眠薬や抗不安薬といった精神科的薬剤の習慣的な使用も、リスクを1.33倍に押し上げていました。これらは、薬剤によるふらつきや、疾患そのものによる神経障害が関与している可能性を示しています。
転倒リスクは「高齢者だけの問題ではない」
本研究が提示した最も衝撃的な知見の一つは、転倒リスクが「高齢者だけの問題ではない」という点です。意外なことに、職場での転倒の半分以上が20歳から39歳の若い世代で発生していました。
若年層における解析では、加熱式タバコの使用と転倒リスクとの関連が、中高年層よりもむしろ強く現れていました。若年労働者は、より身体的負荷の高い作業や、転倒リスクの高い環境(建設現場や高所作業など)に従事する機会が多いことが一因と考えられます。また、若年層は加熱式タバコの普及率が高く、その利便性ゆえに頻繁に使用してしまうことで、ニコチンの急性毒性による立ちくらみや注意散漫を招きやすい状況にあるのかもしれません。
本研究の新規性
これまでの喫煙と外傷に関する研究の多くは、骨密度の低下や血流不全による「骨折後の治癒遅延」に主眼を置いてきました。しかし、本研究は「転倒そのもの」をアウトカムとし、さらに加熱式タバコに特化して職場での発生率を明らかにした点で、国際的にも極めて高い新規性を有しています。
特に、環境整備や物理的なバリアフリー化といった従来の安全対策だけでは防げない、個人の「行動学的リスク」を可視化した意義は非常に大きいです。加熱式タバコは、紙巻きタバコに比べて健康被害が少ないという誤解が広まっていますが、少なくとも「労働安全」という観点においては、むしろリスクを増大させる要因になり得ることを本研究は科学的に証明しました。
研究の限界(Limitation)
本研究には、解釈に際して留意すべきいくつかの限界点も存在します。第一に、横断研究であるため、加熱式タバコの使用と転倒の因果関係を確定させることはできません。つまり、不健康なライフスタイルを送る人が転倒しやすく、かつ加熱式タバコを好むという背景因子が隠れている可能性があります。
第二に、ウェブ調査による自己報告データであるため、思い出しバイアスや報告バイアスを完全に排除することは困難です。
第三に、タバコの使用強度(一日の本数など)や具体的な使用場所についての詳細な情報が不足しており、物理的なメカニズムを完全に特定するには至っていません。
しかし、これらを踏まえても、1.8万人を超える大規模サンプルから得られた関連性は、無視できない強固なものです。
明日から実践すべき行動指針
この研究結果は、私たちの働き方と健康管理に重要な警鐘を鳴らしています。明日から現場で、あるいは自身の生活で活かせるアクションプランは以下の通りです。
- 加熱式タバコへの過信を捨てる:「加熱式だから健康的」という認識を改める必要があります。特に集中力を要する作業の前後や、足元の不安定な場所での使用は、自身の平衡感覚を一時的に狂わせるリスクがあることを自覚してください。
- 若手労働者への安全教育の刷新:転倒防止教育は高齢者向けという固定観念を捨て、若年層に対しても「生活習慣(喫煙・睡眠・薬物)が事故を招く」という視点での指導を徹底してください。
- 睡眠マネジメントの徹底:5時間以下の睡眠は、加熱式タバコの使用に匹敵する、あるいはそれ以上の転倒リスク(1.78倍)を生みます。安全作業の基本は前夜の睡眠から始まっていることを再認識しましょう。
- 基礎疾患の管理と薬剤の把握:糖尿病や高血圧などの持病がある場合、自覚症状がなくても平衡感覚や末梢神経に影響が出ている可能性があります。また、睡眠薬を服用している場合は、翌朝のふらつきが作業に影響しないか、医師や薬剤師に相談する慎重さが必要です。
職場の安全は、手すりの設置やヘルメットの着用といったハード面だけで完成するものではありません。個々の労働者が自らのライフスタイルを律し、ニコチンや睡眠不足が引き起こす「神経学的な揺らぎ」を制御することこそが、真の意味での労働安全への第一歩となるのです。
参考文献
Tsushima, S., Watanabe, K., Hirohashi, S., Yoshimi, T., Fujino, Y., Tabuchi, T., & Zaitsu, M. (2025). Occupational fall incidence associated with heated tobacco product use and lifestyle behaviors in Japan. Scientific Reports, 15, 20035. https://doi.org/10.1038/s41598-025-05204-9


