はじめに
デジタル空間に漂う膨大な言説の渦から、現代医学が直面する最大のパラドックスを解き明かした研究があります。それは、心血管疾患の予防において確固たるエビデンスを持つ「スタチン」が、なぜこれほどまでに忌避され、誤解され続けているのかという問いです。2016年、スタンフォード大学の研究チームがJAMA Network Open誌に発表した論文は、最先端のAI技術を駆使してReddit上の10年分、1万件を超える対話を分析し、人々の深層心理に潜む「不信の地図」を鮮明に描き出しました。
研究プロトコール概要
この研究は、SNS上の自然言語データを対象とした質的・探索的分析です。
・対象:2009年1月1日から2022年7月12日の間にReddit※へ投稿したユーザー
・要因:スタチンおよびコレステロールに関連する特定のキーワードを含む議論
・比較:なし(記述的解析およびAIによる自動分類)
・アウトカム:100のトピック分類、6つの主要テーマの同定、および感情スコアの算出
※ Reddit(レディット)とは、アメリカ発祥の掲示板型SNSで、ユーザーが興味のあるトピックごとに作られたコミュニティ(サブレディット)に参加し、投稿やコメント、投票(Upvote/Downvote)を通じて情報を共有・議論するプラットフォームです。匿名性が高く、「アメリカ版2ちゃんねる」とも呼ばれますが、質の高いコンテンツが上位表示される仕組みと、実用的な情報収集・市場調査の場としても活用されているのが特徴です。
現代医学のパラドックス
スタチンは、米国で処方される全医薬品の約17パーセントを占め、心血管イベントのリスクを劇的に低下させることが証明されている救世主的な薬剤です。しかし、その有効性とは裏腹に、ガイドラインで推奨される高リスク患者でさえ、服薬の継続率は驚くほど低いのが実情です。
研究チームは、この「服薬アドヒアランスの壁」の正体を探るべく、月間4億3000万人以上のユーザーを抱えるRedditに着目しました。分析手法には、文脈理解に長けた自然言語処理モデルであるBERT(Bidirectional Encoder Representations from Transformers)を用いたパイプラインを構築しました。具体的には、5188人のユニークユーザーによる1万233件の議論(961件の投稿と9272件のコメント)を解析の対象としています。特筆すべきは、議論のボリュームが年間平均32.9パーセントという勢いで増加しており、人々が医療機関の外で、いかに切実にこの問題について語り合っているかが示された点です。
6つの主要なテーマ
AIによるクラスタリングの結果、100のトピックは最終的に6つの主要なテーマへと統合されました。
第一のグループは、ケトジェニックダイエット、糖尿病、サプリメントとスタチンの関係です。特にr/keto(全体の23.1%)やr/Cholesterol(21.3%)といったコミュニティでの議論が活発で、食事療法によってLDLコレステロール(LDL-C)が上昇した際の葛藤や、スタチンがインスリン抵抗性を高め、糖尿病リスクを増大させることへの強い警戒感が示されました。
第二のグループは、スタチンの副作用です。筋肉痛(myalgia)、関節痛(arthralgia)、疲労といった自覚症状が、医師への相談なくユーザー間で共有されています。
第三のグループは、スタチンへのためらい(hesitancy)です。新規開始への抵抗や、代替療法の模索が語られています。
第四のグループは、臨床試験に対する懐疑的な評価です。スタチンの全死亡率低下に対する効果への疑問が投げかけられています。
第五のグループは、製薬業界のバイアスです。製薬会社が利益のためにLDL-C仮説を捏造しているという陰謀論的な言説が含まれます。
第六のグループは、紅麹(Red yeast rice)への関心です。スタチンと同等の成分を含みながらも「天然」というラベルに惹かれる心理が浮き彫りになりました。
分子生物学的視点と誤情報のインターフェース
この研究で興味深いのは、単なる感情論にとどまらず、非常に具体的な生物学的議論がSNS上で行われている点です。
例えば、COVID-19パンデミック下において、スタチンがアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)の発現を誘導することで、SARS-CoV-2の細胞内侵入を助長するのではないかという懸念(トピック78)が議論されていました。また、スタチンがミトコンドリアの電子伝達系に不可欠なコエンザイムQ10(CoQ10)を枯渇させ、それが筋肉症状を引き起こすというメカニズムや、PCSK9阻害薬との比較、さらにはスタチンがマイコトキシン(カビ毒)に似た性質を持ち、脂溶性ビタミン(A、D、E、K)の吸収を阻害するという主張も散見されました。
ポジティブな感情はわずか2.6%
感情分析の結果、ポジティブな感情はわずか2.6%にとどまり、ネガティブな感情が30.8%、残りの66.6%が中立という結果でした。平均感情スコアはマイナス0.28であり、ネット上の議論は圧倒的に否定的なトーンに支配されています。
非常に否定的な感情の議論の例には、次のようなものがありました。
「CVDリスクを減らすためにスタチンを服用すると、アルツハイマー病のリスクが上がる?なんて厄介な!」
「そしてスタチンはCOVIDではなくあなたを殺す」
「スタチンは毒だ。明らかに製薬業界が金儲けのために作り上げた神話だ…」。
先行研究に対する新規性と科学的価値
これまでの研究は、Twitter(現X)などの短文SNSを対象に、人手による手動アノテーションで行われることが一般的でした。しかし、本研究はRedditという長文形式のプラットフォームを対象とし、かつBERTという高度なTransformerモデルを用いることで、10年以上にわたる大規模データを一貫したアルゴリズムで客観的に解析した点に大きな新規性があります。
また、単に「嫌われている」という結果を出すだけでなく、100もの微細なトピックに分解したことで、冠動脈石灰化スコア(CAC)がスタチン開始の説得材料になり得ることや、胎児幹細胞を用いた開発への倫理的懸念といった、従来の臨床現場では見過ごされがちだったミクロな心理的障壁までを特定することに成功しました。
限界(limitation)
本研究にはいくつかの限界が存在します。
第一に、Redditのユーザー層は一般に若年層(18歳から29歳)に偏る傾向があり、スタチンの主要な適応となる高齢者の声を十分に反映していない可能性があります。
第二に、誤字脱字によるAIの誤分類のリスクです。例えば、Crestor(クレストール)とCreator(創造主)を混同するといった、言語モデル特有のノイズが完全に排除できているわけではありません。
第三に、この解析手法は「何が語られているか」を明らかにしますが、それが医学的に正しいか、あるいは語っている人物が実際に患者であるかまでは保証しません。AIはあくまで「デジタル上の世論」を映し出す鏡であり、医学的真実を決定するものではないという点に注意が必要です。
私たちの明日への指針
この論文から得られる知見は、私たちが明日から実践すべき行動について、重要な示唆を与えてくれます。
第一に、情報の「出所」を意識することです。SNS上の議論は、中立を装いつつも強いネガティブバイアスにさらされています。特に「天然のサプリメント」という呼称に惑わされないことが重要です。紅麹などのサプリメントは、純化されていない天然のスタチン成分を含んでいる場合があり、それは自己判断でのコントロールが不可能な、管理されていない薬剤を服用しているのと同義です。
第二に、ケトジェニックダイエットなど、極端な食事療法を行っている場合は、LDL-Cの推移に細心の注意を払うべきです。SNS上では「ケト中のLDL上昇は無視して良い」という言説が目立ちますが、これは現在の循環器病学のコンセンサスとは異なります。
第三に、医療従事者との対話において「SNSで見た不安」を隠さずに共有することです。副作用への懸念や代替療法への興味は、恥ずべきことではなく、多くの人が抱く共通の心理です。医師との間で、CACスコアの測定や、代替的な投与スケジュールの検討など、科学的根拠に基づいた「納得感のある」治療戦略を構築することが、長期的には心血管死を防ぐ唯一の道となります。
デジタル時代において、私たちは情報の波に飲み込まれるのではなく、AIが示した「バイアスの傾向」を理解した上で、自らの健康を守るための羅針盤として活用していくべきなのです。
参考文献
Somani S, van Buchem MM, Sarraju A, Hernandez-Boussard T, Rodriguez F. Artificial Intelligence-Enabled Analysis of Statin-Related Topics and Sentiments on Social Media. JAMA Netw Open. 2023;6(4):e239747. doi:10.1001/jamanetworkopen.2023.9747
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