はじめに:記憶は脳だけに宿るのか?
現代医学は、記憶や学習の機能を基本的に中枢神経系、特に大脳皮質や海馬といった脳構造に帰属させてきました。しかしこの常識に一石を投じるのが、2000年に発表されたPearsallらによる本研究です。本論文は、心臓移植後にレシピエントの人格、嗜好、行動がドナーと類似する変化を示す症例を、10例にわたり系統的に記述したものです。
筆者らは、これらの変化が単なる偶然や薬理作用、心理的反応では説明しきれないことを示し、「細胞記憶(cellular memory)」あるいは「全身的記憶(systemic memory)」の仮説に基づく解釈を提案しています。
研究の概要と方法
この研究では、米国内の複数の病院で心臓あるいは心肺移植を受けた10名のレシピエント(年齢:0.7〜56歳)と、その家族、ドナーの家族・友人に対してオープンエンドのインタビューを実施し、移植後の変化とドナーの人格的特徴との一致を検討しています。
- レシピエントの男女比:男性7名、女性3名
- ドナーの年齢:16か月〜34歳
- 観察対象となった変化:食嗜好、芸術嗜好、性的指向、夢、記憶、行動様式など
- 一致点の数:1例あたり2〜5項目の「ドナーとの並行的変化(parallels)」を確認
データは逐語録として記録され、SchwartzおよびRussekが検証の上で代表的症例として本報告に掲載しています。
主な症例と観察結果
研究で報告された症例は、いずれも主観的報告にとどまらず、レシピエントの家族やドナーの家族・友人による相互確認がなされています。以下は代表的な観察例です。
ケース1:音楽の嗜好と作曲傾向の一致
18歳の女性レシピエントが、同年齢の男性ドナーから心臓を受けた後、自発的にギターを学び、ドナーが作った楽曲のメロディーを「覚えていた」ように歌い出したという事例です。ドナーは実際に音楽を作っており、事故死後に家族が遺した楽譜と一致が確認されました。
ケース4:クラシック音楽と異人種への親和性
47歳の白人男性が、17歳の黒人青年の心臓を移植された後、急にクラシック音楽を好むようになり、黒人の同僚と親密な関係を築くようになったと報告しています。後に、ドナーがバイオリン教室に向かう途中に死亡し、バイオリンケースを抱えたまま亡くなっていたことが判明します。これらの嗜好は、ドナーの生前の性格と強く一致していたとされています。
ケース5:性的指向の変化
元々同性愛者であった29歳女性が、異性愛的な傾向を示し始めた事例です。ドナーは“自由恋愛”志向の若い女性であり、多数の異性関係がありました。レシピエントは「性欲はあるが女性に惹かれなくなった」と証言し、周囲の家族もその変化を認めています。
ケース10:銃撃による死亡と夢の一致
56歳の大学教授が34歳の警官(顔を撃たれて死亡)の心臓を移植後、「顔に閃光が見え、熱く燃えるような感覚」の夢を繰り返し見るようになったと証言しています。さらに閃光の前に「イエスのような人物」の幻視を報告していますが、ドナーの妻によれば、犯人の似顔絵は「イエスの絵に似た落ち着いた表情」だったとのことです。
生物学的背景と仮説:細胞記憶と全身的記憶
本研究の根底にあるのは、全身的記憶(systemic memory)仮説です。この考え方は、再帰的フィードバックループを有するすべての動的システム(細胞、臓器、分子ネットワークなど)が情報とエネルギーを保持するとするものです。
細胞レベルでは、膜電位、イオンチャネル、シグナル伝達経路、エピジェネティクス的修飾などが情報保持の担い手になりうる可能性が指摘されています。特に心筋細胞は、交感神経・副交感神経との密接な連携、自己発火活動、電気的共鳴性などの点から、単なる“ポンプ”以上の役割を果たしているとする仮説もあります。
また、脳と心臓の電磁共鳴を通じた「エネルギー的記憶伝達」モデル(Energy Cardiology)は、記憶情報が脳内だけでなく、心臓や他臓器の“場”に保存される可能性を補完するものです。
Limitation(限界)
- サンプル数の少なさ(n=10)と非無作為性
- すべてが症例報告であり、統計的検証は未実施
- 盲検性がないため、記憶バイアスや投影の可能性を排除できない
- 医学的に異常を示さないが、精神疾患とみなされる恐れがある
著者らは、300例を対象とした大規模研究や、生理指標の併用による検証を進行中であり、今後のデータによってはより確固たるエビデンスが期待されます。
2000年論文に「進行中」の記載。その後どうなった?
しかし、2025年現在、その後の研究成果や詳細な報告については公表されていないようです。
一方で、近年の研究では、心臓移植に限らず、他の臓器移植後にもレシピエントが性格や嗜好の変化を経験することが報告されています。例えば、2024年に発表された研究では、心臓移植レシピエントの91.3%、他の臓器移植レシピエントの87.5%が移植後に何らかの性格変化を報告しています。これらの変化には、食の好み、感情、宗教的信念、記憶などが含まれており、心臓移植に特有の現象ではない可能性が示唆されています。
Carter, B.; Khoshnaw, L.; Simmons, M.; Hines, L.; Wolfe, B.; Liester, M. Personality Changes Associated with Organ Transplants. Transplantology 2024, 5, 12-26. https://doi.org/10.3390/transplantology5010002)
また、2020年の研究では、心臓移植後の性格変化がドナーの特徴と一致する可能性について、細胞記憶の観点から検討されています。この研究では、エピジェネティック記憶、DNA記憶、RNA記憶、タンパク質記憶など、細胞レベルでの情報伝達の可能性が議論されています。
Liester MB. Personality changes following heart transplantation: The role of cellular memory. Med Hypotheses. 2020 Feb;135:109468. doi: 10.1016/j.mehy.2019.109468. Epub 2019 Oct 31. PMID: 31739081.
これらの研究は、Pearsallらの仮説を支持する可能性がある一方で、依然として科学的な証拠は限定的であり、さらなる研究が必要とされています。今後、より大規模で盲検化された研究や、生理学的指標を用いた客観的な検証が求められます。
おわりに:記憶と自己の再定義へ
この研究が示すのは、記憶とは単に「脳に保存されたデータ」ではなく、身体全体に刻まれた生命の軌跡そのものである可能性です。レシピエントの体験は、他者の人生の断片が「鼓動」として自身の中に流れ込む、稀有な“他者との融合体験”であり、医療者にとっても存在論的・倫理的に深い問いを投げかけています。
移植医療が技術的に進化する中で、こうした“見えない情報の伝達”に目を向けることは、より人間的な医療の深化につながると考えられます。
参考文献
Pearsall P, Schwartz GER, Russek LGS. Changes in heart transplant recipients that parallel the personalities of their donors. Integrative Medicine. 1999;2(2/3):65–72.