はじめに
腰痛や慢性的な背部障害は、世界的にみても最も一般的な慢性疾患の一つであり、健康関連QOLの低下だけでなく、社会的・経済的負担をもたらすことが知られています。特に労働年齢層においては、単なる痛みや身体機能の制限にとどまらず、労働参加の中断や生産性の低下を通じて経済的損失を引き起こします。本研究(Dockingら、2025年)は、オーストラリアの労働人口を対象に、今後10年間にわたる長期的背部障害による生産性損失を詳細に推計した点で重要です。
研究の背景
従来、疾病負担の評価にはQALY(quality-adjusted life years)やDALY(disability-adjusted life years)が用いられてきましたが、それらは必ずしも労働生産性への直接的な影響を反映しません。本研究では、より実務的な評価指標として生産性調整生存年(productivity-adjusted life years: PALY)を用いました。PALYは死亡、欠勤(absenteeism)、プレゼンティーイズム(presenteeism)、早期労働離脱のすべてを統合し、労働市場における実際の損失を数量化できる点が特徴です。
方法の概要
研究では、2024年から2033年のオーストラリア労働人口(15~64歳)を対象に、動的ライフテーブルモデルが構築されました。データは以下から得られています。
- 有病率:2022年国民健康調査(N=13,100世帯)
- 労働参加率:2024年オーストラリア労働力調査
- 死亡リスク:慢性背部痛を持つ者は死亡リスクが1.17倍(HR 1.17, 95% CI 1.11–1.22)
- 欠勤・プレゼンティーイズム:米国健康調査(2008年)の推計値を使用
全ての推計値は年齢・性別で分けられ、フルタイム換算(FTE)労働時間とGDP換算値に基づき計算されました。
主な結果
2024年時点で、オーストラリアにおける長期的背部障害の有病者は295万人と推定され、2033年には326万人に増加すると予測されました。
- PALY損失:10年間で3,394,255年(患者1,000人あたり109 PALY)
- GDP損失:6,380億豪ドル(約4,210億米ドル)、これは同期間のGDPの約4.6%に相当
- 1人あたりGDP損失:20,553豪ドル(約13,565米ドル)
さらに、損失要因の内訳は以下のように分解されました。
- プレゼンティーイズム:62.2%
- 欠勤:13.7%
- 労働離脱:20.1%
- 余命損失:1.4%
つまり、生産性損失の大部分は「働いてはいるが十分なパフォーマンスを発揮できない」状態から生じていることが明らかになりました。
シナリオ分析
仮想的な介入効果を推定したシナリオ分析も興味深い結果を示しました。
- 有病率・発症率を10%減少:GDP損失は414億豪ドル減少
- 25%減少:1,054億豪ドルのGDP損失削減
- 65~74歳を含めた場合:さらに207,597 PALY(390億豪ドル相当)の損失が追加
また、生産性指標の設定によって推定値は大きく変動し、PALY損失は177万~485万の幅を取りました。この点は推定の不確実性を強調しています。
考察
本研究の最大の意義は、背部障害の社会的コストを単なる労働参加の有無にとどめず、欠勤・プレゼンティーイズムまで含めた包括的な視点で評価したことです。従来の推計では早期退職など限定的な要素に依存していたため、真の負担を過小評価していた可能性があります。
特にプレゼンティーイズムの影響が6割以上を占めたことは、臨床現場にも直結する知見です。腰痛患者が労働を続けながらも集中力低下や作業効率の悪化を抱えている現状は、単なる医療問題を超えて企業や社会の生産性に直結します。したがって「働きながらいかに生産性を維持するか」という視点での介入が不可欠です。
臨床的・政策的含意
臨床ガイドラインでは、非特異的腰痛に対しては「過剰な画像検査を避け、活動を継続し、自己管理を促す」ことが推奨されています。しかし現実には低価値医療が蔓延しており、不要な画像検査やオピオイド投与はむしろ復職を遅らせ、生産性損失を拡大している可能性が示されています。本研究は、ガイドライン準拠の高価値ケアを徹底することが、患者の健康のみならず社会的利益にもつながることを強調しています。
新規性
本研究の新規性は以下の3点に集約されます。
- オーストラリア全労働人口(15~64歳)を対象とした初めての推計であること
- PALYという包括的指標を用い、欠勤・プレゼンティーイズム・早期労働離脱をすべて評価したこと
- 将来推計(2024~2033年)により政策介入の潜在的効果を具体的な経済指標で示したこと
これにより、背部障害がもたらす負担を健康分野にとどめず、経済・社会全体の課題として位置づけ直した点に大きな意義があります。
限界
本研究にはいくつかの制約があります。
- 欠勤・プレゼンティーイズムの推定値は米国データに依存しており、オーストラリアの実態を正確に反映していない可能性があること
- 自己申告調査に基づくため、有病率の過小または過大評価のリスクがあること
- 背部障害と生産性低下の因果関係は必ずしも直接的ではなく、生活習慣因子や薬物使用が媒介している部分が大きいこと(余命損失の約75%は生活習慣に起因)
これらを踏まえると、提示された数値は推定値であり、実態を完全に代弁するものではないことに留意が必要です。
結論
長期的背部障害は、単なる健康問題ではなく、社会全体の生産性に大きな損失をもたらす要因であることが示されました。10年間で6,380億豪ドルのGDP損失という具体的な数値は、政策決定者に強いインパクトを与えるものです。臨床的には高価値ケアの徹底、社会的には労働環境の改善が急務です。腰痛管理を「医療費の削減」ではなく「社会全体の生産性向上」という視点で捉えることが、今後の医療政策の鍵となります。
参考文献
Docking SI, Ackerman IN, Buchbinder R, Zomer E, Liew D, Ademi Z. Productivity Losses Due to Long-Term Back Problems in Working-Age Australians. JAMA Netw Open. 2025;8(8):e2527284. doi:10.1001/jamanetworkopen.2025.27284