中高年男性の「初フルマラソン」は、心臓にダメージを与えるのか?

身体活動

はじめに

フルマラソンという過酷な挑戦が、中高年の心臓にどのような爪痕を残すのか。この古典的かつ切実な問いに対し、2025年に発表された最新の研究は、最先端の心臓イメージング技術を駆使して一つの明快な答えを提示しました。私たちは、激しい運動の後に血中に溢れ出す心筋ダメージの指標に怯えるべきなのか、あるいはそれを人体の驚異的な適応能力の証として受け入れるべきなのでしょうか。

研究プロトコールの概要(PICO)

本研究は、オランダの研究チームが実施した前向きコホート研究です。その概要を簡潔に示します。

P(対象):フルマラソンの経験がなく、過去1年間にハーフマラソン以上の距離を走ったことのない、35歳から50歳(41.2±4.5歳)の健康な男性(最終分析対象17名)。全員、元々日常的にスポーツをしていた。

I(介入):16週間のガイド付き未監視トレーニング、および2021年アムステルダムマラソンの完走。

C(比較):ベースライン(トレーニング開始前)、トレーニング後(レース2週間前)、レース直後(完走後10時間以内)、回復後(4週間後)の4時点での比較。

O(アウトカム):3テスラMRIによる定量的組織マッピング(T1、T2、ECV、拡散テンソル)、心エコー、心電図(ECG)、血液バイオマーカー(高感度トロポニンT、NT-proBNP)。

事前のトレーニングがもたらす代謝系や換気効率の改善

冒頭で特筆すべきは、マラソンという本番に至るまでの16週間のトレーニング過程で、すでに心血管系にポジティブな変化が生じていたという事実です。週平均で約171分から213分、距離にして30.8キロメートルから37.6キロメートルの走行を重ねた結果、参加者の第一換気閾値(VT1)における酸素摂取量は、32.5 mL/min/kgから33.3 mL/min/kgへと有意に向上しました。

さらに、総コレステロール値が0.4 mmol/L減少しただけでなく、体重も中央値で1.3パーセントの減少を示しました。興味深いことに、この段階では心臓の形態的変化、いわゆる「スポーツ心」への移行は顕著ではありませんでした。左室および右室の容積や心筋重量に大きな変化は見られず、この16週間の準備期間が、構造的な改変よりも代謝系や換気効率の改善に寄与したことを示唆しています。

フルマラソン完走直後の血液検査

レース当日、参加者たちは平均3時間57分というタイムで42.195キロメートルを駆け抜けました。平均心拍数は161回毎分に達し、これは彼らの最大心拍数の87.8パーセントに相当する高強度な負荷でした。

レース直後の血液検査の結果は、一見すると戦慄を覚えるものです。心筋損傷のゴールデンスタンダードとされる高感度トロポニンT(hs-TnT)は、レース当日の朝の8 ng/L未満から、完走後1時間以内には34 ng/Lへと4倍以上に上がりました。参加者17名全員が、臨床的なカットオフ値を上回ったのです。また、心室への壁ストレスを反映するNT-proBNPも、50 ng/L未満から85 ng/Lへと上昇しました。

通常の臨床現場であれば、これらの数値は急性心筋梗塞や心不全を強く疑わせるレッドフラグです。しかし、果たして本当に心筋細胞は破壊されていたのでしょうか。

フルマラソン完走 数時間後のMRI

研究チームはこの疑問に答えるべく、完走から10時間以内という早いタイミングで3テスラMRIを用いた多角的な評価を行いました。ここで用いられた定量的組織マッピングは、従来の画像診断では捉えきれない微細な組織変化を可視化するものです。

心筋組織全体の浮腫は生じていない

まず、心筋の炎症や浮腫を反映するネイティブT1値およびT2値に、有意な上昇は見られませんでした。ベースラインで1195 msだったT1値は、レース後も1193 msと安定しており、これは心筋組織内の水分量増加、つまり炎症性浮腫が生じていないことを強く裏付けています。

間質浮腫は生じていない

さらに、細胞外液画分(ECV)(心筋組織の中で、心筋細胞そのものを除いた「細胞と細胞の間のスペース(間質)」)の解析も極めて示唆に富むものでした。個々のヘマトクリット値で補正したECVは、26.1パーセントから25.7パーセントへとむしろ安定、あるいはわずかに減少する傾向すら見せました。

心筋組織の障害も認めず

組織の不可逆的な「傷跡」を確認するためのゴールドスタンダードであるLGE(遅延造影)検査の結果、病的な造影効果を示した参加者は一人もいませんでした。
線維化の「前段階」となる心筋細胞の急激な障害(壊死)そのものが起きていないことを示唆します。

これらは、先行研究で指摘されていた「マラソン後の心筋の線維化や間質浮腫」という仮説を真っ向から否定するデータです。

心筋細胞の微細構造は維持

拡散テンソル画像(DTI)による水分子の拡散能(Mean Diffusivity)や異方性(Fractional Anisotropy)にも変化はなく、心筋細胞の微細構造は完全に維持されていたことが判明しました。

心臓の形態的変化

左室拡張末期容積の僅かな減少

形態的には、左室拡張末期容積(LVEDV)がエコー評価で22 mL、MRI評価で9 mL減少するという、10パーセントに満たない軽微な縮小が認められました。これは大量の発汗による脱水や、末梢血管への血流シフトに伴う前負荷の減少を反映していると考えられます。

ねじれ運動(Left Ventricular Torsion)増大

特筆すべき変化は、左室の「ねじれ運動(Torsion)」に現れました。

左室ねじれ(Left Ventricular Torsion)とは、心臓の左心室が収縮・拡張する際に、心尖部(先端)と基部(付け根)がそれぞれ逆方向にねじる(回転する)動きのことで、心臓のポンプ機能の重要な指標です。駆出率(EF)などの従来の指標では捉えきれない心臓の微細な動き(特に拡張機能)を評価でき、より精密な心機能診断を可能にします。「心臓がどれだけ効率よく、しなやかにポンプしているか」を示す、心臓の動きの「しなやかさ」や「効率性」を測る指標と言えます。 

レース直後、左室のねじれは有意に増大し、心筋がより強く絞り出されるような動きを見せたのです。これはカテコールアミンの放出による強心作用(イノトロピック刺激)に対する生理的な反応であり、駆出率(EF)やストレイン(Strain)が正常範囲内で維持されていたことと合わせ、心臓が疲弊しているのではなく、高強度の負荷に対して効率的に適応している姿を浮き彫りにしました

「前負荷(入り込む血液量)の減少」のために駆出率(EF)を下げないために動員された補完メカニズムなのかもしれません。

心電図 一過性のQT間隔延長

心電図においては、心拍数の増加に伴いQT間隔の短縮が見られましたが、心拍補正を行ったQTc間隔は、レース前の422 msから438 msへと16 msの延長を示しました。これもまた激しい運動後によく見られる一過性の変化であり、病的な不整脈を示唆するST変化やT波の異常、異常Q波などは一切認められませんでした。

全ての変化は4週間後に完全に消失

そして最も心強い事実は、これらの劇的な変化のすべてが、4週間の休息を経て完全に消失したことです。血液バイオマーカーはベースラインに戻り、心機能や組織マッピングの数値も元の静謐な状態へと帰結しました。中高年男性が初めて挑むマラソンは、適切に管理された条件下であれば、心臓に癒えない傷を残すことはないということが科学的に証明されたのです。

なぜトロポニンが上昇するのか?

心筋細胞が障害されていないのに、なぜその内部にあるはずのトロポニンが血液中に出てくるのでしょうか。

「構造的損傷」ではなく「生理的ストレス反応」

著者らは「運動誘発性のバイオマーカー放出は心筋損傷を反映しているのではなく、ストレスに対する生理的反応である」と結論づけています。

MRI(LGE、T1/T2、DTI)によって、細胞膜の破綻や細胞死、組織の浮腫が完全に否定されたため、検出されたトロポニンは「細胞が崩壊して中身が漏れ出したもの」ではないと断定しています。

①「心筋細胞の腫脹(スウェリング)」仮説

この論文が提示した非常に興味深い独自の説明が、初心者特有の「細胞の膨張」です。(※補足参照)

  • データの裏付け: 今回の初心者ランナーでは、レース直後に細胞外液(ECV:細胞の隙間)が減少していました。
  • 解釈: 論文では、未トレーニング者の心筋細胞が高強度の負荷にさらされると、一時的に細胞自体が膨らむ(Swelling)可能性があると考察しています。「隙間(ECV)」の割合が減ったということは、逆説的に細胞そのものが膨らんで、隙間を押しつぶしたという推論が成立します。この細胞が膨らむ過程で、細胞膜の透過性が一時的に変化し、細胞質内に浮遊していたトロポニンが「押し出されるように」血中へ移動したのではないか、と説明しています。

②カテコールアミンによる「強心刺激」

論文は、レース中に放出される大量のカテコールアミン(アドレナリンなど)の影響を指摘しています。

  • メカニズム: カテコールアミンは心筋を強く収縮させ(ねじれ運動の増大)、代謝を極限まで高めます。
  • 解釈: この強力な刺激自体が、細胞の構造を破壊することなく、細胞膜の(サルコレンマ)全体の透過性を一過性に高め、トロポニンの放出を促した可能性を論じています。
    細胞膜の脂質二重層に極めて微細な隙間が生じたり、あるいは膜の一部が水泡状に突出して切り離される「ブレビング」という現象が起きたりすることを意味します。

③細胞質のトロポニン

本論文は、自らのデータを解釈するにあたり、「トロポニンの動態」に関する先行研究(2021 Aengevaerenら)を引用しています。それらを踏まえた説明をまとめると以下のようになります。

  • 心筋細胞の中には、収縮装置にガッチリ固定されたトロポニンだけでなく、細胞質にぷかぷかと浮いている「遊離型プール」が存在します。
  • 心筋トロポニンT(cTnT)の約6-8%、心筋トロポニンI(cTnI)の約3-4%が細胞質に遊離した状態で存在しているとされています。
  • 細胞の壊死が起きなくても、過度な負荷(ストレス)がかかるだけで、この遊離している分だけが、一時的に透過性の増した膜を通り抜けて血中に出てくる。

まとめ

運動誘発性のトロポニン上昇は、単一のメカニズムではなく、以下の「3段階の連鎖」によって生じていると考えるのが最も客観的妥当性が高いと言えます。

  1. ソース(上記③):細胞質内に存在する「遊離型プール」という放出準備が整った成分がある。
  2. トリガー(上記②):カテコールアミンが心臓をフル稼働させ、機械的・代謝的な極限ストレスをかける。
  3. プロセス(上記①):未トレーニングの心筋細胞が一時的に「腫脹(膨張)」し、膜のシールド機能が物理的に揺らぐ。その隙間から遊離型プール(細胞質のトロポニン)が血中へ漏出する。

本研究の新規性と科学的価値

これまでの研究の多くは、熟練したエリートランナーや、すでに「スポーツ心」が形成されたアスリートを対象としていました。しかし、本研究の真の新規性は、心血管イベントのリスクが相対的に高いとされる「初心者の中高年男性」に焦点を当てた点にあります。

さらに、単なる心エコーによる機能評価に留まらず、3テスラMRIによるT1/T2マッピング、ECV、さらには拡散テンソル画像という、心筋組織の分子レベルの動態を推測しうる最先端の評価手法を統合した点は、これまでの知見を大きく塗り替えるものです。血中のトロポニン上昇が必ずしも心筋の「死」や「不可逆的な損傷」を意味せず、細胞膜の透過性の一時的な変化や、生理的なストレス応答の一環であることをこれほど鮮明に示した研究は他にありません。

研究の限界(Limitation)

もちろん、科学的誠実さを持ってこの研究の限界も直視しなければなりません。

第一に、サンプルサイズが17名と小規模であることです。これにより、稀に発生する重大な合併症や、個体差による反応の多様性を完全には網羅できていない可能性があります。

第二に、対象が健康な男性に限定されているため、女性や、すでに心疾患の既往がある方、あるいは極端にフィットネスレベルが低い方への一般化には慎重であるべきです。

第三に、本研究ではベースライン検査の段階で、3名の志願者が潜在的な心血管疾患の発見により除外されています。つまり、「無事に完走できた健康な人々」のデータであるという選択バイアスが存在します。これは裏を返せば、事前のスクリーニングがいかに重要であるかを物語っています。

明日から行動できる知的な実践

この論文から得られた知見を、皆様の明日からのライフスタイルにどう活かすべきでしょうか。

  1. 賢明なる楽観主義:マラソン後の血液検査値に一喜一憂する必要はありません。高感度トロポニンの上昇は、心臓の破壊ではなく、限界に挑んだ身体の「勲章」とも言える生理的反応です。適切なトレーニングを積んでいれば、心臓は私たちが想像する以上に頑強です。
  2. 16週間の「準備」:本研究の参加者が安全に完走できた背景には、16週間にわたる段階的なトレーニングがあります。急激な負荷は避け、少なくとも4ヶ月程度の準備期間を設けることで、脂質代謝や換気効率を最適化し、心臓への過度な負担を軽減することができます。
  3. メディカルスクリーニングの重要性:研究プロセスで3名が心血管疾患のため除外された事実は極めて重いものです。自身が「健康である」と信じていても、高強度の運動に挑む前には、専門医による心電図や心エコーなどのスクリーニングを受けることを強く推奨します。
  4. 回復を疎かにしない:勇気レース直後の変化はすべて4週間で消失しました。このデータは、激闘の後に一ヶ月程度の積極的な休養や低強度な活動期間を置くことが、生理学的に極めて理にかなっていることを示しています。

科学は、未知の恐怖を既知の理解へと変えてくれます。フルマラソンという壮大な挑戦は、正しく理解し、正しく準備する者にとって、心臓の限界を試す試練ではなく、生命の躍動を謳歌する最高の舞台となるはずです。

参考文献

Laily I, van Steijn N, Wiggers TGH, Froeling M, Planken RN, Verwijs SM, de Haan FH, Motazedi E, Verhagen EALM, Jørstad HT, Bakermans AJ. Acute impact of first-time marathon running on the heart in middle-aged men. Open Heart. 2025;12(1):e003915. doi:10.1136/openhrt-2025-003915.

補足:ECV(細胞外液分画):初心者と熟練者の違い

本論文では、初マラソンのランナーにおいてECVが減少した理由を、過去の熟練ランナーを対象とした研究(Aengevaeren et al. 2020)と比較して、以下のように考察しています。

初心者の反応:心筋細胞の腫脹(Cardiomyocyte Swelling)

今回の研究対象である「初心者」の心臓は、フルマラソンのような極限の持久的負荷にまだ適応していません。

  • メカニズム: 未トレーニングの心筋細胞が過酷な代謝ストレスにさらされると、細胞膜のイオンポンプ機能の一時的な不均衡が生じ、細胞内に水分が取り込まれます。「相対的なエネルギー不足」と「代謝産物の蓄積」によって、細胞内に水を溜め込んでしまうため、一時的に膨らんでしまうのです。
  • 結果: 心筋細胞そのものが「ぷっくりと膨らむ(腫脹)」ことになります。
  • ECVへの影響: 組織全体の容積の中で「細胞」が占める割合が大きくなるため、相対的に「細胞の外側(隙間)」であるECVの割合は減少します。これが今回の研究で見られた現象です。

ベテランの反応:間質容積の拡張(Interstitial Expansion)

一方、長年トレーニングを積んでいる熟練ランナーの心臓は、すでに「スポーツ心」として構造的に適応しています。

  • 背景: 熟練した心臓は、もともとベースラインのECV(間質の割合)が初心者よりも高い傾向にあります(今回の研究:26.1% vs 熟練者研究:27.6%)。
  • メカニズム: 激しい運動によって心臓への負荷(圧負荷やカテコールアミン刺激)がかかると、すでに十分に存在する細胞の隙間(間質)に、さらに水分が漏れ出しやすくなります。
  • 結果: 細胞そのものが膨らむよりも先に、細胞の「隙間」に水が溜まる(間質浮腫)反応が優位になります。
  • ECVへの影響: 隙間の割合が広がるため、ECVは増加します。

心筋トロポニンの上昇との関連

この違いは、心筋トロポニンの上昇が「どのようなルートで起きているか」を示唆する重要なヒントになります。

  • 初心者の場合: 細胞が膨らむ(スウェリング)ことによる物理的な膜ストレスが、トロポニンの漏出(透過性の変化)を引き起こした可能性が高い。
  • ベテランの場合: すでに拡張している間質スペースへの水分の出入りに伴い、トロポニンが運ばれた可能性が高い。

補足のまとめ

論文は、「トレーニングを受けた心臓と受けていない心臓では、単一のマラソン走行が組織レベルで与える影響が異なる可能性がある」と結論づけています。

  • 初心者: 細胞内への負荷(細胞腫脹)が先行する。
  • ベテラン: 組織の隙間への負荷(間質拡張)が先行する。

この「ECVの減少」は、初心者の心臓が初めての極限負荷に対して、細胞レベルで懸命に適応しようともがいている姿を映し出しているのかもしれません。

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