序論
近年、肥満症に対する薬物治療は急速に普及しており、その中心的役割を果たしているのがGLP-1受容体作動薬や、さらに進化した二重作動薬であるチルゼパチドです。チルゼパチドは、GLP-1(glucagon-like peptide-1)とGIP(glucose-dependent insulinotropic polypeptide)の双方に作用することで、強力な体重減少効果を示します。しかし、その一方で心血管系への影響については十分に解明されていません。チルゼパチド投与によって起立性頻脈症候群(POTS)が顕著に悪化した症例報告を取り上げます。
症例の概要
対象者は28歳女性、BMI 32.3 kg/m²(身長1.60 m、体重82.6 kg)です。
若年期は競泳選手として活動。シェーグレン症候群、うつ病・不安障害の既往あり。20歳代にPOTSと診断され、β遮断薬、イバブラジン、ミドドリンを使用後、運動療法と心理カウンセリングにより薬剤中止に成功し、症状は改善していました。
チルゼパチドを2.5 mg/週で開始し、2か月後には5 mg/週へ増量しました。その結果、約20 kgの体重減少に成功しましたが、同時に起立性不耐症状が再燃しました。
臨床的に注目すべきは心拍数の変化です。チルゼパチド導入前は、安静時心拍数67/分、立位で95/分に留まっていました。しかし投与後は、仰臥位で94/分、立位で最大134/分まで上昇しました。一般的にGLP-1受容体作動薬で報告される心拍数上昇は3/分程度ですが、この症例では27/分と約9倍の上昇を示したことが特筆されます。
既往歴と病態背景
患者は若年時には競泳選手として高い活動性を持っていましたが、失神を契機に活動性が低下し、徐々に体重が増加しました。シェーグレン症候群、うつ病、不安障害の既往もあり、複数の因子がPOTSの持続に影響していたと考えられます。過去にはβ遮断薬、イバブラジン、ミドドリンが使用されましたが、最終的には運動療法とカウンセリングによって薬剤を中止できるまで改善していました。この経緯は、POTSが身体的要因と心理的要因の複雑な相互作用によって形成される病態であることを示しています。
検査結果
チルゼパチド投与中の評価では、24時間血圧・心拍数モニタリングで覚醒時心拍数96±14/分、睡眠時80±3/分と全体に高値を示しました。ホルター心電図14日間では不整脈はなく、洞性頻脈のみが確認されました。さらに、血液量測定で循環血漿量は予測値の85%と軽度の低容量血症を認めました。体組成評価では筋肉量49%、脂肪48%であり、急速な体重減少にもかかわらずサルコペニアは認めませんでした。
メカニズム
チルゼパチドが心拍数を増加させる要因として、以下の複合的作用が考えられます。
- 血管拡張作用
- GIPは腸管や脾臓への血流を増加させ、GLP-1は脂肪組織や骨格筋において血管拡張を引き起こします。
- これにより、循環血液分布の調節が困難となり、心拍出量を維持するために交感神経が過剰に作動します。
- 低容量血症との相互作用
- 予測値の85%という低い血漿量は、立位時のストロークボリューム低下を助長しました。
- その結果、安静時から心拍数が高値を示し、立位での頻脈が顕著になったと考えられます。
- 自律神経系への影響
- GLP-1受容体刺激は迷走神経活動を抑制し、交感神経優位を強めることが報告されています。
- POTS患者は元来、交感神経過活動や過敏な反応を示すため、薬剤による影響が増幅された可能性があります。
治療と経過
チルゼパチドは5 mg/週から2.5 mg/週へ減量され、並行して弾性ストッキングと筋力トレーニングを強化しました。1か月後には安静時心拍数84/分、立位113/分へと改善し、症状も軽快しました。この経過は、用量依存的な薬理作用を示唆するとともに、適切な生活指導と併用することで副作用を軽減できる可能性を示しています。
臨床的意義
この症例は、チルゼパチドのような強力な体重減少薬をPOTS患者に処方する際の注意点を明確に示しています。一般的に安全とされる心拍数上昇でも、POTSという脆弱な循環調節機構を持つ患者では、顕著な増悪を招く可能性があります。臨床的には以下が示唆されます。
- POTS患者へのチルゼパチド処方時は低用量から開始し、体重減少は緩徐に進めるべきである。
- 循環血漿量の維持(水分・塩分摂取)は必須である。
- 心拍数・起立耐性を定期的にモニタリングし、必要なら減量を検討する。
Limitation
本報告は単一症例であり、因果関係を断定できません。他のPOTS患者にも普遍的に当てはまるかは不明であり、さらなる研究が必要です。また、併存疾患や心理的要因も影響している可能性が否定できません。
結論
チルゼパチドは肥満治療薬として大きな効果を発揮しますが、POTS患者では自律神経系への影響が過剰に現れる可能性があります。本症例は、体重減少と引き換えに循環調節が破綻し、心拍数が通常の9倍もの幅で上昇した稀有な例です。臨床医は、このリスクを念頭に置き、個々の患者に応じたきめ細やかな対応を行う必要があります。
参考文献
Hedge ET, Grappe SR, Vernino S, Almandoz JP, Levine BD. Exacerbation of Postural Orthostatic Tachycardia Syndrome With Tirzepatide Prescribed for Weight Loss. JACC Case Rep. 2025;105430. doi:10.1016/j.jaccas.2025.105430