はじめに
救急外来を訪れる患者の多くは、受診の数日前から生理学的な変調をきたしています。本研究は、患者が日常的に携行するスマートデバイスから安静時心拍数と歩数の推移を抽出し、入院予測における有用性を検証した国際多施設共同研究です。
研究の背景とフラッシュモブ・スタディの採用
急性疾患の重症度評価には、通常、集団の平均値に基づいたNEWS(国立早期警告スコア)などが用いられます。しかし、個人の生理的基準値(パーソナル・ベースライン)は年齢や身体条件によって大きく異なり、集団平均からの逸脱のみを指標とすることには限界があります。
本研究は、2024年5月の特定の1日に、4カ国34施設で一斉にデータを収集する「フラッシュモブ・スタディ」の手法を用いて実施されました。
救急受診した患者1137名を対象に、デバイスに記録された受診前30日間のデータを遡及的に解析するという、極めて機動性の高い調査が行われました。
デジタル・データのアクセス性と対象者の偏り
調査の結果、救急患者の40パーセントがスマートデバイスを所有していましたが、解析に必要な継続的データを保持していたのは全体の20パーセント(209名)に留まりました。この解析対象となった層は、高等教育を受けたデジタル・リテラシーの高い個人に偏っており、NEWSスコアやフレイル指標も比較的良好な「健康な救急患者」が中心でした。この結果は、デジタル・ヘルス・モニタリングの恩恵が、最も必要とされる高リスク層(高齢者や低所得層)に十分に届いていない現状を浮き彫りにしています。
受診前日に現れる決定的な予兆
安静時心拍数上昇
解析の結果、受診の数日前から、安静時心拍数の有意な上昇(P < .001)と歩数の有意な減少(P < .001)が確認されました。特に受診前日のデータは、その後の処遇(入院か帰宅か)を予測する上で重要な指標となりました。
歩数減少
歩数に関しては、前日の歩数が1000歩減少するごとに、入院リスクが有意に高まる(オッズ比0.90 per 1000 steps)ことが示されました。一時点の診察では見えにくい「活動量の動的な変化」が、疾患の進展を鋭敏に反映していることが定量的データによって証明されました。
自律神経のレジリエンスと心拍数変化の解釈
興味深いことに、最終的に帰宅を許された比較的健康な患者群において、受診直前に安静時心拍数がより急激な上昇(スパイク)を見せる傾向が観察されました。これは、自律神経系の調節能が高い健康な個人ほど、急性ストレスに対して心臓を迅速に反応させる「適応的レジリエンス」を有している可能性を示唆しています。
対照的に、入院に至る重症患者では、ベースラインの心拍数が全体的に高く、かつ変化が緩慢であるという特徴が見られました。数値の絶対値だけでなく、その変化の傾きやパターンが、生体の適応能力を測るバイオマーカーとなり得るのです。
研究の限界と将来の課題
本研究には、対象者の選択バイアスという明確な限界があります。若年で健康意識の高い層のデータが中心となっており、救急医療の主役である高齢者や多併存疾患患者の動態を完全には網羅できていません。また、薬剤の影響や詳細な既往歴の補正も不十分であり、これらの結果を臨床現場に実装するためには、より多様な集団での検証が不可欠です。
臨床および日常への実装
この研究から得られる教訓は、個人のデジタル履歴が「診察室の補助診断」として強力な武器になるということです。
我々が明日から実践できることとして、まず自身の安静時心拍数と歩数のベースラインを把握し、体調不良を感じた際にはその変化を客観的な数値として医師に提示することが挙げられます。
「なんとなく体がだるい」という主観を、「昨日は歩数が通常の3割まで減り、心拍数がベースラインより20高い」という客観データに置き換えることで、より的確な医療判断を引き出すことが可能になります。
結論
スマートデバイスに蓄積されたパーソナル・ベースラインは、従来の救急医療における評価指標を補完し、個々の患者に最適化された「先制医療」を実現するための鍵となるでしょう。
参考文献
den Duijn JGA, Hajjaj AAM, Kellett J, Frischknecht Christensen E, Haak HR, Brabrand M, Nickel CH, Nanayakkara PWB, Subbe CP, Alsma J, Safer@Home, Research Consoritum Acute Medicine (ORCA). Using Patient-Held Devices to Measure Variations in Resting Heart Rate and Step Count Prior to Presentation With an Acute Illness: International, Multicenter Flash Mob Feasibility Study. JMIR Cardio 2025;9:e76218.


