はじめに
有人宇宙探査は、かつて国家主導の壮大なプロジェクトでしたが、近年は民間企業の参入により新たな局面を迎えています。月面滞在や火星探査といった長期宇宙滞在が現実味を帯びるなかで、最も大きな課題の一つが人体への影響です。特に心血管系は重力の有無に直接影響を受けるため、宇宙滞在に伴う変化の理解と対策は喫緊の課題です。本稿では、Gotoらの最新レビュー論文をもとに、宇宙飛行が心血管系に及ぼす影響、そして現行の対策や将来の展望について解説します。
微小重力と心血管系の急性変化
宇宙に到達して最初に生じるのは「体液シフト」です。地上では重力によって体液の約70%が心臓より下方に分布していますが、微小重力下ではこの力が消失し、およそ2000 mLの体液が頭部方向に移動します。その結果、24時間以内に血漿量は約17%減少し、赤血球量も10〜12%低下します。この現象は「宇宙貧血」と呼ばれ、循環血液量全体として11%の減少を示します。これらの変化は、ANP(心房性ナトリウム利尿ペプチド)の分泌亢進やADH(抗利尿ホルモン)の分泌抑制による利尿を介して進行することが知られています。※1
また、前庭系や圧受容体反射といった血圧調整機構の負荷が軽減することで、その機能が低下します。帰還後に直立位を保てなくなる「起立性耐性低下」は、この反射機能の減弱と血漿量減少、心筋萎縮が複合的に作用する結果です。長期滞在した宇宙飛行士の83%が帰還直後に起立性不耐を呈することは、その深刻さを示しています。
心筋萎縮と有酸素能の低下
宇宙滞在のもう一つの重要な影響は心筋萎縮です。MRIによる解析では、わずか10日間の飛行で左室重量が平均12%減少した例が報告されています。6か月の滞在では最大酸素摂取量(VO₂max)が10〜20%低下し、短期飛行でも9〜14日間で着陸直後にVO₂maxが22%減少したことが示されています。※2
分子レベルの変化として、心筋細胞におけるタンパク質翻訳が抑制され、特にトロポミオシンやミオシン調節軽鎖といった細胞骨格関連タンパク質が減少します。これらはミトコンドリアの局在やエネルギー代謝に不可欠な分子であり、その減少は心筋萎縮や収縮力低下の一因と考えられています。
宇宙滞在中の対策
こうした変化を予防するために、ISSでは飛行士が週6日、1日約2時間半の運動を行うことが標準化されています。トレッドミル(COLBERT, TVIS)やエルゴメータ(CEVIS)、レジスタンス運動を組み合わせることで、筋力と心肺機能を維持します。近年は時間効率の高い高強度インターバルトレーニング(HIIT)が導入され、従来より短時間で効果を得る方法として注目されています。
補助的対策として、フルドロコルチゾンの投与、塩分・水分負荷、下半身加圧服や弾性着衣の使用が行われています。また、前庭系への電気刺激によって血圧反射を改善し、帰還後の起立性低血圧を軽減した報告もあります。
帰還後のリハビリテーション
地球に戻った宇宙飛行士には、通常45日間のリハビリが行われます。最初の2週間は平衡感覚や歩行に困難がみられますが、1か月程度で飛行前レベルまで回復することが可能です。リハビリ内容は、感覚統合訓練(不安定な台上での運動やバスケットボールのドリブル)、柔軟性や敏捷性の改善、短時間で最大筋力を発揮するトレーニングなど多岐にわたります。最大酸素摂取量は帰還後15%程度低下しますが、漸進的な有酸素運動により回復します。
イメージ診断と遠隔医療
宇宙空間では大型機器の利用が難しいため、超音波検査が中心となっています。AI搭載の携帯型超音波装置(Butterfly IQ+)は非医療従事者でも使用可能で、Inspiration4ミッションでは頸静脈や膀胱の画像取得に成功しました。ISS滞在中には、偶発的に発見された頸静脈血栓が超音波で診断され、遠隔医療の支援により抗凝固療法で治療された事例も報告されています。これは宇宙での初の遠隔超音波診断・治療成功例であり、未来の宇宙探査における医療の礎といえます。
将来展望 ― 人工重力と心臓リハビリの融合
ISSでの運動プログラムは一定の効果を示していますが、毎日2時間以上の運動は時間的負担が大きいことが課題です。そこで注目されているのが人工重力です。小型短腕遠心機により1.5〜2Gの重力負荷を毎日30分程度与えることで、心血管調節機能の維持や骨量減少、筋萎縮、免疫低下を予防できる可能性が示されています。さらに、月面コロニーの居住施設では人工重力を利用した建築構想も検討されています。
今後は、心疾患を持つ人や高齢者も宇宙旅行に参加する時代が到来します。そのとき必要となるのは、これまで地上で蓄積された心臓リハビリの知見と、宇宙特有の生理変化に対応する医療を融合させた「宇宙心臓リハビリテーション」です。これは単に宇宙探査のためだけでなく、地上の高齢者医療や心不全患者の新たな治療戦略のヒントにもなり得ます。
おわりに
宇宙飛行は人類の新たな挑戦であると同時に、人体にとって未経験の環境への適応実験でもあります。本論文は、微小重力が心血管系に及ぼす影響を数値的に明らかにし、運動・薬物・リハビリ・人工重力といった多層的対策の必要性を示しました。これらの知見は、将来の宇宙探査だけでなく、地上の心血管リハビリの革新にも寄与するものです。
参考文献
Goto M. Physiological Changes in the Cardiovascular System During Space Flight: Current Countermeasures and Future Vision. Circ Rep. 2025;7:742–749. doi:10.1253/circrep.CR-25-0096
補足 ※1「体液シフト」と血漿量や赤血球量の減少
「体液シフト」という現象は単なる「場所の移動」ではなく、その後に起こるホルモン応答や腎臓での処理によって血液量そのものが調整されるため、血漿量や赤血球量の減少につながります。
1. 体液シフトの初期段階
微小重力下では、重力による水柱圧が消失します。
そのため、本来は下肢にプールされていた体液(約2000 mL)が頭部や胸部に移動し、心房や胸腔内の容量受容器(aortic arch, 心房壁など)に過剰な充満が起こります。
2. 内分泌的応答 ― 利尿と血漿量減少
胸部への体液充満は、身体に「循環血液量が過剰だ」と誤認させます。すると以下の反応が誘発されます。
- ANP(心房性ナトリウム利尿ペプチド)の分泌増加
心房が拡張するとANPが分泌され、腎臓でNa⁺排泄と利尿を促進します。 - ADH(抗利尿ホルモン)の分泌抑制
腎集合管での水再吸収が減少し、尿量が増加します。
これらの結果、血漿水分が積極的に排泄されるため、24時間以内に血漿量は約17%減少するのです。
つまり、「体液が上半身に移動する」という初期的な変化に続いて、「余剰を捨てようとする腎臓・ホルモン系の反応」が生じるのが本質です。
3. 赤血球量が減少する理由
赤血球そのものも減少します。これは「宇宙貧血」と呼ばれる現象で、機序は以下です。
- 血漿量減少に伴いヘマトクリットは一時的に上昇します。
- 体は「赤血球が多すぎる」と誤認し、腎臓でのエリスロポエチン分泌が抑制されます。
- その結果、骨髄での赤血球産生が抑えられ、さらに寿命を迎えた赤血球の破壊が上回るため、10〜12%の赤血球量減少が起こります。
4. 適応としての「宇宙貧血」
つまり、この変化は病的というよりも「新しい環境への適応」です。微小重力下では血液を重力に逆らって運ぶ必要がないため、循環血液量を減らしたほうが心臓への負荷が小さく、代謝的にも合理的です。
ただし、帰還後に重力環境に戻ると、減少した血液量では立位維持が困難になり、起立性不耐につながります。
まとめ
- 体液シフト → 胸腔充満 → ANP↑, ADH↓ → 利尿 → 血漿量減少(約17%)
- ヘマトクリット上昇 → EPO抑制 → 赤血球産生低下 → 赤血球量減少(10〜12%)
- これは「微小重力への適応反応」であり、帰還後の起立性低血圧の主要因となる。
補足 ※2 心筋萎縮
循環器内科医にとって「心筋萎縮」はとても気になる現象です。構造的、機能的には具体的にどのような変化があるのでしょうか?
MRI・エコーでの特徴
論文7_CR-25-0096に基づくと、宇宙滞在後に左室重量が平均12%減少することが報告されています。これは心筋自体の萎縮(atrophy)であり、以下の所見が得られます。
- 左室壁厚:減少する(とくに心室中隔や後壁厚の軽度な減少)。
- 左室拡張末期径(LVEDD):血漿量・前負荷の低下により小さくなる傾向。
- 左室拡張末期容量(LVEDV):全体として低下。
- 心筋重量(LV mass):MRIで定量すると有意に減少(短期滞在でも報告あり)。
LVEF(左室駆出率)の変化
萎縮=ポンプ機能低下、と直結しそうですが、実際は少し違います。
- LVEFは必ずしも低下しない
論文によれば、長期滞在後でも左室駆出率や駆出速度はむしろ軽度上昇していた例がありました。
これは、前負荷の低下で心腔が小さくなる一方、運動対策(ISSでの毎日の運動プログラム)が効果を持ち、収縮機能が比較的保たれるためと考えられます。 - 一方、最大酸素摂取量(VO₂max)は10〜20%低下しており、これは心拍出量の減少や循環血液量低下の影響が反映されています。
ストロークボリュームの変化
微小重力下では以下が起こります:
- 体液量の減少(血漿量約17%減)
- 心腔サイズの縮小(LVEDVの低下)
- 心筋萎縮(左室重量の減少)
これらにより、1回拍出量(ストロークボリューム)は明らかに低下します。
心拍数の反応
短期の飛行直後や起立負荷の場面では、ストロークボリューム低下を代償するため心拍数は上昇します。しかし、宇宙滞在中や帰還直後のデータでは、
- 自律神経反射(圧受容体反射、前庭系血圧反射)が低下
- 交感神経活性の立ち上がりが鈍い
といった特徴があるため、十分に心拍数を上げられない(相対的な変時不全様の状態)ことが報告されています。
心拍出量(CO)の変化
心拍出量 = ストロークボリューム × 心拍数
- 滞在中:
心拍数の代償が不十分なため、心拍出量は低下します。 - 帰還直後:
立位ではさらに静脈還流が減少し、ストロークボリュームが急激に落ち込むため、心拍出量は顕著に低下 → 起立性不耐の主要因となります。 - 安静時:
宇宙滞在中の安静時心拍出量は、地上よりやや低下していると報告されています。
まとめ
- 心筋萎縮は画像的には「壁厚の減少」「左室サイズの縮小」「心筋重量の減少」として表現される。
- ただしLVEFは必ずしも低下せず、むしろ維持〜軽度上昇する報告がある。
- 機能的低下は「VO₂maxの低下」として顕在化し、これは循環血液量減少やストロークボリューム低下による。
- ストロークボリューム:減少する。
- 心拍数:代償的に上昇するが、反射機能低下により不十分。
- 心拍出量:全体として低下。特に帰還後の立位では顕著に低下し、83%の長期滞在飛行士が起立性不耐を呈する。
宇宙飛行後の心臓は「小さく引き締まった状態」になるイメージです。ただしポンプ機能(LVEF)は見かけ上保たれていても、「予備能力(reserve)」が低下しているため、帰還直後は起立性不耐や運動耐容能低下が問題になります。
「ストロークボリューム低下 → 心拍数上昇で代償」という一般的な反応は部分的に起こりますが、宇宙飛行では自律神経反射の低下が加わるため十分に補えず、結果として心拍出量は低下してしまう、というのが実態です。