虚血性心疾患を有する人は富士山登頂を目指せるか?

心臓血管

はじめに:標高3776mの挑戦に心臓はどう応えるか

富士山。標高3776mという日本最高峰の頂を目指す行為は、多くの人にとって精神的な達成であると同時に、身体にとっても大きな挑戦です。特に虚血性心疾患(CAD:冠動脈疾患)を抱える人々にとって、高地における低酸素環境は心筋虚血を誘発する可能性があるため、登山の可否や対策は慎重に検討する必要があります。

2018年にEuropean Heart Journalに掲載された共同声明「Clinical recommendations for high altitude exposure of individuals with pre-existing cardiovascular conditions」は、こうした患者の高地曝露に対するリスク評価と実践的対応策を科学的に整理しています。本稿では、この論文に基づき、富士登山を想定した虚血性心疾患患者への詳細な指針を解説いたします。


高地と心筋虚血:酸素供給の不均衡が導く危機

高地では、標高の上昇に伴い大気圧と吸入酸素分圧(PiO₂)が低下し、肺胞酸素分圧(PAO₂)も下がります。例えば、標高3000mではPAO₂は約67mmHgにまで低下し、これは海面で14%の酸素混合気を吸入しているのと同程度です。富士山頂(3776m)ではさらに低下することが予想され、これが冠動脈の血流と心筋への酸素供給に大きな影響を与えます。

健常人であれば、このような酸素供給低下に対して換気亢進や心拍数上昇による代償反応が働きますが、すでに動脈硬化により冠血管の予備能が低下しているCAD患者では、酸素供給と需要のバランス(Supply–Demand mismatch)が容易に崩れ、虚血発作が引き起こされるリスクがあります。

このような心筋の脆弱性を定量的に捉える指標として、Subendocardial Viability Ratio(SEVR)が注目されています。これは、心筋酸素供給(DPTI:Diastolic Pressure–Time Index)と消費(SPTI:Systolic Pressure–Time Index)の比であり、SEVRが1.0を下回ると虚血のリスクが増大すると考えられています。

Subendocardial Viability Ratio(SEVR)についてはこちらの【補足】を参考に。


高地曝露によるSEVRの変化:実験的証拠に基づく洞察

本論文では、健康成人を標高4559mに曝露した研究で、SEVRが1.63 ± 0.15から1.18 ± 0.17へ有意に低下(P < 0.001)したと報告されています。さらに、酸素含有量で補正したSEVR-CaO₂も29.6 ± 4.0から17.3 ± 3.0へ低下(P < 0.001)しており、心筋への酸素供給の著しい減少が明らかになっています。これは、冠血流が需要に見合わず、特に心内膜下領域(subendocardium)の虚血リスクが高まっている状態を示します。

特筆すべきは、こうした変化が健常者でも確認されたという点であり、虚血性心疾患患者ではこの影響がさらに顕著である可能性が高いことを示唆します。


富士登山を想定した実臨床への応用

富士山の登頂は、CCS分類(※)で低~中リスク(CCS I〜II)の患者であれば、条件付きで許容される可能性があります。本論文では、低リスクのCAD患者は最大標高4200mまでの登山が可能(Class IIa, Level C)とされており、富士山はこの基準内に収まります。ただし、以下の条件を満たすことが前提です。

  1. 急性冠症候群から少なくとも6ヶ月以上経過していること
  2. 運動負荷試験にて心筋虚血所見がないこと
  3. 軽度~中等度の身体活動が日常的に可能であること
  4. 血圧や心拍数が良好にコントロールされていること

また、虚血のリスクが中等度と判断される場合(CCS II–III)には、標高2500mを超える登山において身体活動を軽度に制限し、事前評価を厳密に行う必要があります。

(※)CCS分類(Canadian Cardiovascular Society分類)は、狭心症の重症度を評価するための臨床指標で、日常生活における身体活動に対する症状の出現度合いで4段階に分けられます。CCSクラスIは日常活動では症状が出ない軽症例、クラスIIは階段や坂道などで軽度の労作時に症状が出る中等症、クラスIIIは日常的な軽い活動でも狭心症が出現する重症例、そしてクラスIVは安静時にも症状があり、身体活動を行うことがほぼ不可能な状態を指します。


分子レベルの視点:虚血の本質とは何か

心筋虚血は、単に冠動脈の狭窄によって生じるわけではありません。高地では交感神経活性の亢進が認められ、これにより心拍数と収縮力が増加します。これらは酸素消費の増大を引き起こす一方で、冠動脈の拡張予備能が制限されたCAD患者では十分な酸素供給が行えず、ミトコンドリアのATP産生低下、ROS生成増加、Ca²⁺オーバーロードといった分子異常を介して心筋傷害へと至ります。

特に、低酸素環境下では内皮依存性の血管拡張反応が障害され、冠血管スパズムが惹起される可能性もあり、分子的にも虚血の閾値が下がる状況であることが理解されます。


アセタゾラミドの予防的役割:実践可能な薬理的対策

本論文は、アセタゾラミドの予防投与がSEVR低下を緩和することを示しています。これは、炭酸脱水酵素阻害による代謝性アシドーシスの誘導を通じて換気量を増加させ、動脈血酸素飽和度を改善することに起因します。健常者の試験において、SEVR-CaO₂はアセタゾラミド群で32.1 ± 7.0から22.3 ± 4.6へ低下(P < 0.001)と、プラセボ群に比して緩やかな変化でした。

この結果は、虚血性心疾患患者においても、アセタゾラミドの使用が虚血予防に一定の効果を持つ可能性を示唆しており、富士登山前の内服選択肢として検討すべきです。


富士登山を成功させるための臨床的ポイント

以下に、CAD患者が富士山登頂を安全に行うための行動指針をまとめます。

  • 登山6ヶ月前までに心臓評価(運動負荷試験・心エコー)を受ける
  • 標高2500m以降は1日あたり300–500m程度の漸進的な登高にとどめる
  • 登山前日よりアセタゾラミド(125–250mg BID)を開始
  • 水分・塩分補給を怠らず、脱水と血液濃縮を予防
  • SpO₂が80%を下回る場合や胸部症状が出た場合は中止または下山

おわりに:科学的根拠が安全な冒険を支える

虚血性心疾患を持つ人々が標高3776mの富士山に挑むことは、必ずしも無謀な行為ではありません。科学的知見に基づいた個別リスク評価と適切な薬理的・行動的対策を講じることで、心臓への負担を最小限に抑えつつ、高地の自然を安全に楽しむことが可能です。

富士山は、科学と意志が協働すれば、CAD患者にとっても到達し得る「日本一高い頂」です。

参考文献

Parati G, Agostoni P, Basnyat B, et al. Clinical recommendations for high altitude exposure of individuals with pre-existing cardiovascular conditions. European Heart Journal. 2018;39(17):1546–1554. doi: 10.1093/eurheartj/ehx720

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