序論
肥満や生活習慣病の予防において、「食事のスピード」や「咀嚼の程度」が重要な行動因子であることは、多くの疫学研究によって示されてきました。例えば、食べる速さと肥満(BMI≧25.0)の関係や、咀嚼回数を増やすことによる満腹感の促進などが報告されています。
しかし、従来の先行研究は、「ゆっくり食べる」または「よく噛む」のいずれか一方の行動因子に焦点を当てたものが主流でした。
本研究の最大の新規性は、日本の食育基本法が目標として掲げる「ゆっくりよく噛んで食べる」という、二つの意味を内包する複合的な健康行動指標を目的変数として設定し、その関連因子を包括的に解析した点にあります。このアプローチは、国民の食習慣改善に向けた政策的な介入策を検討する上で、より実践的かつ具体的な指針を提供するものです。
研究デザイン:全国1,644名の中年〜高齢者を対象とした大規模横断研究
調査はウェブベースで、横断調査を実施しました。
- 対象者:40代〜70代、男女822名ずつ(計1,644名)
- 評価項目
- 食行動・健康行動:12項目
- 歯科・口腔状態:14項目
- 社会経済因子:6項目
- 解析方法:ロジスティック回帰(強制投入モデルとステップワイズ法)
「ゆっくり食べ、よく噛む」は4段階で回答され、最も良い群(ゆっくり&十分に噛む)を目的変数としています。「ゆっくりよく噛んで食べる」行動のオッズ比(OR)を算出しています。この大規模な全国ベースのデータは、結果の一般化可能性が高いことを示唆しています。
「よく噛む」より「よく味わう」
本研究の段階的ロジスティック回帰分析(モデル2)において、「ゆっくりよく噛んで食べる」行動と最も強く関連していた因子は、性別・年齢層を問わず「食事を味わいながら食べる」ことでした。この関連性の強さは、そのオッズ比が示す具体的な数値から明らかです。
- 男性:OR 11.20(95%信頼区間: 5.28–23.76, p<0.0001)
- 女性:OR 11.48(95%信頼区間: 4.63–28.46, p<0.0001)
「味わう」という行動は、単なる「噛む回数」という物理的な行動ではなく、「味覚、嗅覚、触覚を意識的に使い、食事を深く楽しむ」という認知的・心理的なプロセスを伴います。
咀嚼回数の増加は、消化管ホルモン(インスリン分泌促進ホルモン、特にGLP-1など)の分泌を促し、満腹中枢を刺激して食欲を抑制し、結果的に過剰な食物摂取を防ぐことが、先行研究で示唆されています。
「味わう」行為は、この一連の生理学的プロセスの上流で作用している可能性が考えられます。つまり、意識的に「味わい」に集中することで、食事時間が自然に延長し、一口の摂取量が抑制され、結果として咀嚼回数が増加します。この生理的なメカニズムが、咀嚼行動と満腹感の連鎖を効率的に起動させていると解釈できるわけです。
「口いっぱいに食べ物を詰め込まないこと」
次に強く関連していた因子は、「口いっぱいに食べ物を詰め込まないこと」でした。
- 男性:OR 3.34(95%信頼区間: 2.23–5.00, p<0.0001)
- 女性:OR 2.60(95%信頼区間: 1.65–4.10, p<0.0001)
一口量が多いと、一回の咀嚼で食物が十分に粉砕されず、結果的に咀嚼回数が減少することが報告されています。この因子は、「よく噛む」という行動の物理的な基盤であり、「味わう」ことと同様に、食べる速さや咀嚼の質をコントロールする上で非常に重要であると位置づけられます。
さらに、食事習慣の項目では、「満腹になるまで食べない」ことが女性でのみ有意な関連を示していました(OR 1.67、95% CI: 1.16–2.40, p=0.006)。この差異は、食習慣や食行動に対する性差を反映している可能性があります。
口腔内の健康状態が行動を支える基盤
口腔内の健康は、単なる歯科疾患の問題ではなく、「よく噛む」という行動の実行可能性(feasibility)を直接的に規定する基盤因子です。本研究は、健康的な口腔条件が「ゆっくりよく噛んで食べる」行動を支持していることを明確に示しました。
- 男性:「歯の周りの骨の減少がないこと」 OR 2.06(95% CI: 1.22–3.50, p=0.007)
- 女性:「歯の痛みがないこと」 OR 2.72(95% CI: 1.44–5.16, p=0.002)
歯の周りの骨の減少、すなわち歯周病の進行は、歯の動揺(ぐらつき)や咀嚼時の痛みを引き起こし、結果として硬い食物を避ける、または咀嚼回数を減らす行動変容を無意識に促します。また、女性で特に「歯の痛み」の有無が強く関連していることは、痛覚に対する感度の高さや、痛みが食事の質に与える影響の大きさを反映しているのかもしれません。
年代別の分析では、特に高齢層において口腔の健康がより顕著に関連していました。
- 男性60代・70代では、重度の歯周病の可能性がないこと(60代:OR 4.19、70代:OR 2.80)、口腔乾燥がないこと(60代:OR 3.70)、歯や歯肉の痛みがないこと(60代:OR 5.25)といった歯周組織とオーラルフレイルの不在が、有意に「ゆっくりよく噛んで食べる」ことに関連していました。
- 女性70代では、「硬いものを食べる困難さがないこと」が有意に関連しています。
これらの結果は、「健康的な食行動」というアウトカムを得るためには、「口腔内の健康」がその前提条件として不可欠であるという、臨床現場での認識を裏付けるものです。
実践への提言:明日からの行動変容
本研究の結果は、インテリジェンスの高い読者の皆様が、ご自身の健康管理や、患者・顧客への指導を行う上で、明日から行動に活かせる具体的な示唆に満ちています。
提言 1: 「味わう」ことを最優先の食育目標に据える
従来の「30回噛む」といった数値目標は、実践のハードルが高く、継続が難しい場合があります。本研究の結果は、行動変容の起点を「回数」ではなく「意識」に変えることを推奨しています。
- 五感を意識する: 食材の色、香り、食感(パリパリ、しっとり、ねばねばなど)を、食べる前に一瞬立ち止まって意識してください。
- 脳へのフィードバックを重視する: 噛んでいる最中に、食物の味がどう変化するか、口の中でどのように広がるかといった「味わい」に集中することで、結果的に咀嚼回数と食事時間が自然と伸び、満腹シグナルが適切に処理されます。
2. 一口量のコントロールと咀嚼の質の向上
「口いっぱいに詰め込まない」という行動は、意図的に咀嚼の質を高めるための、最も直接的な方法です。
- 「一口入れたら箸を置く」という習慣を徹底してください。
- 食事中に他者との会話を取り入れることも、結果的に一口量の抑制と食事時間の延長に繋がるため有効です。
3. 口腔内ケアの戦略的な位置づけ
「よく噛む」能力を維持するためには、口腔内を健康に保つことが必須です。
- 歯周組織の積極的な管理: 歯周病の進行(骨吸収)や歯の痛みは、本人の自覚とは関係なく咀嚼機能を低下させます。男性で示された「骨の減少がないこと」、女性で示された「歯の痛みがないこと」の重要性を鑑み、症状の有無にかかわらず、半年に一度は歯科医院での検診とプロフェッショナルケア(特に歯周組織の評価とクリーニング)を怠らないでください。これは、食生活の「土台」を維持するための、最も重要な投資です。
研究の限界(Limitation)と結論
本研究は、重要な知見を提供していますが、以下の限界も伴います。
- 自己申告データ: 調査項目はすべてウェブベースの自己申告によるものであり、実際の咀嚼回数、食事時間、口腔内の状態(例:骨の減少や歯の痛み)は、客観的な医療計測値ではありません。このため、報告バイアスや記憶バイアスの影響を受ける可能性があります。
- 横断研究デザイン: 本研究は、一時点のデータを分析した横断研究であり、「味わう」ことが「ゆっくりよく噛んで食べる」という行動を引き起こす(因果関係)ことを証明するものではありません。今後、介入研究や縦断研究による検証が必要です。
結論
本研究は、日本の食育推進の目標達成に向けた極めて重要な羅針盤を提供しました。「ゆっくりよく噛んで食べる」という複合的な健康行動は、「食事を味わう」という認知的・心理的な満足を求める行動と、歯周病や歯痛の不在に代表される口腔内の物理的な健康によって強く支持されていることが明確になりました。
この知見に基づき、私たちは、個人の健康増進と公衆衛生の向上の両面において、食事を単なるエネルギー摂取と捉えるのではなく、五感を通じて豊かに「味わう」時間として再定義することが求められています。
参考文献
Ishikawa, M., Iwasaki, M., Tano, R. et al. Dietary and oral factors associated with eating slowly and chewing well: a National web-based study. Sci Rep 15, 40677 (2025). https://doi.org/10.1038/s41598-025-17631-9

