はじめに
世界保健機関(WHO)や欧州心臓病学会(ESC)が、今、かつてない危機感を抱いています。それは、長年「タバコの害」の主犯とされてきた「燃焼」や「タール」という影に隠れ、あたかも比較的無害な依存性物質であるかのように振る舞ってきたニコチンの正体が、実は極めて強力な循環器毒であることが白日の下に晒されたからです。2025年に発表されたこの最新のポリシーペーパーは、ニコチンを含むすべての製品が、その摂取形態にかかわらず、私たちの心臓と血管に対して直接的な破壊活動を行っていることを、膨大なエビデンスとともに突きつけています。医療知識を有する皆様に向けて、この静かなる脅威のメカニズムと、私たちが直面している公衆衛生上の分岐点について詳しく解説します。
ニコチン関連疾患がもたらす圧倒的な経済・生命損失
タバコの使用は、依然として世界の早期死亡の主要な原因であり続けています。2021年のデータによれば、タバコの使用による年間死者数は770万人に達し、これは全地球上の死亡者数の13.6%を占めています。その最大の死因は循環器疾患であり、虚血性心疾患や脳卒中を中心に年間約225万人が命を落としています。欧州圏内だけでも、タバコに関連する医療費や生産性の損失、早期死亡による経済的コストは年間3000億ユーロを超えています。
さらに憂慮すべきは、ニコチン依存の形が急速に多様化していることです。現在、欧州の青少年の最大40%が電子タバコを経験しており、従来の紙巻きタバコからの脱却ではなく、新たなニコチン依存の入り口となっているのが現状です。
ニコチンの直接的な血管破壊メカニズム
本論文の最も革新的な点は、燃焼産物を除外した「ニコチン単体」が、どのようにして循環器系を攻撃するかを詳細に記述している点にあります。ニコチンは単なる依存物質ではなく、複数の経路を通じて生物学的に活性な毒として作用します。
交感神経刺激剤
まず、ニコチンは強力な交感神経刺激剤です。副腎髄質や自律神経節のニコチン性アセチルコリン受容体に結合し、ノルアドレナリンやアドレナリンのカテコールアミン放出を強力に促します。これにより、心拍数、心筋収縮力、心拍出量が急激に上昇し、同時に末梢血管が収縮することで血圧が上昇します。慢性的な曝露は、持続的な交感神経の過緊張を招き、高血圧や不整脈、心筋のリモデリングを引き起こします。
血管内皮機能障害
血管内皮細胞のレベルでは、さらに深刻な事態が進行します。ニコチンは、血管の健康を守る門番である血管内皮機能を著しく損ないます。具体的には、ニコチン曝露によって食細胞性NADPHオキシダーゼ(nicotinamide adenine dinucleotide phosphate oxidase 2;NOX-2)が活性化され、過剰な活性酸素種(reactive oxygen species;ROS)が生成されます。これが、一酸化窒素(nitric oxide;NO)を合成する酵素であるeNOS(血管内皮型一酸化窒素合成酵素)のアンカップリングを引き起こします。本来、血管を拡張させ保護するNOを作るはずのeNOSが、あろうことか自身が活性酸素の発生源へと変貌してしまうのです。このNOの枯渇と酸化ストレスの増大は、VCAM-1やICAM-1といった接着分子の発現を促し、白血球の接着や血管炎症を増幅させ、動脈硬化を劇的に加速させます。
血管新生促進作用
また、ニコチンには強力な血管新生促進作用があることも判明しています。内皮細胞上の受容体を介してVEGF(血管内皮増殖因子)やFGF-2(線維芽細胞増殖因子2)の経路を活性化させます。これは一見、虚血には有利に働くように思えますが、実際にはプラーク内の新生血管形成を促して不安定化させ、突然の破綻と血栓形成を誘発するリスクを高めます。さらに、トロンボキサンA2の増加やフィブリン溶解系の抑制といった凝固能の亢進も認められており、ニコチンは血栓性イベントの引き金そのものなのです。
多様化するデバイス「安全なニコチン製品などは存在しない」
電子タバコ(E-Cigarette)、加熱式タバコ(Heat not burn device;HNB)、ニコチンパウチ(oral nicotine products;ONPs (e.g., nicotine pouches))、水タバコ(waterpipe、シーシャ Shisha)など、現代のニコチン供給源は多岐にわたりますが、論文は「安全なニコチン製品などは存在しない」と断言しています。
電子タバコ
電子タバコは、紙巻きタバコに比べて発がん性物質が少ないと宣伝されてきました。しかし、最新のpod型システムでは「ニコチン塩」が使用されており、喉への刺激を抑えつつ、極めて高濃度のニコチンを急速に脳へ届けることが可能です。ひとつのカートリッジに紙巻きタバコ20本分に相当するニコチンが含まれていることも珍しくありません。FMD(血流依存性血管拡張反応)を用いた研究では、電子タバコの使用者は紙巻きタバコ喫煙者と同等の内皮機能障害を示しており、心筋梗塞のリスクを2.1倍に高めるという報告もあります。
加熱式タバコ
加熱式タバコについても、一酸化炭素などの燃焼産物は減少しているものの、内皮機能へのダメージは紙巻きタバコと変わりません。紙巻きタバコから加熱式に切り替えた場合、血管機能の一部に回復が見られることがありますが、決して正常化することはありません。また、スウェーデンで広く普及しているスヌースなどの経口ニコチン製剤も、使用者の心血管死亡率や全死亡率を有意に高めることが、大規模な追跡調査から明らかになっています。
水タバコ(シーシャ)
特に衝撃的なのは水タバコ(シーシャ)です。1回のセッション(約45分)で吸い込む煙の量は、紙巻きタバコ100本分に相当します。一酸化炭素や重金属、アクロレインなどの濃度は紙巻きタバコを凌駕することもあり、深刻な内皮障害と動脈硬化を招きます。
経口 ニコチンパウチ(oral nicotine products;ONPs )
燃焼を伴わないが、内皮機能不全や血圧上昇、死亡率の上昇との関連が報告されています 。
受動ニコチン曝露という見えない脅威
ニコチンの被害は、使用者本人に留まりません。電子タバコの蒸気は単なる「水蒸気」ではなく、ニコチン、プロピレングリコール、アルデヒド、重金属、微細粒子を含んだエアロゾルです。密閉された空間での受動曝露は、わずか数分で非使用者の血管内皮機能を低下させ、血小板の凝集を促進させます。30分未満の曝露であっても、脆弱な個人においては心筋梗塞や脳卒中の引き金になり得ることが指摘されています。加熱式タバコであっても、子供の受動曝露によって酸化ストレスマーカーが上昇し、血管反応性が低下することが確認されています。
依存への「入り口(ゲートウェイ)」
ニコチン業界は、フレーバーやインフルエンサーを駆使し、ニコチンを「ウェルネス製品」や「ライフスタイル・アクセサリー」としてリブランディングしています。思春期の脳はドパミンシグナルの変化に対して非常に敏感であり、この時期のニコチン曝露は生涯にわたる依存症の基礎を作り上げます。米国では高校生の27.5パーセントが電子タバコを利用しており、そのうちの多くが従来のタバコを一度も吸ったことがない若者たちです。電子タバコは「禁煙の出口」ではなく、新たな依存への「入り口(ゲートウェイ)」として機能しています。
明日から実践すべき行動と専門家としての指針
この論文が示す科学的事実は、臨床現場や日常生活において即座に応用されるべきものです。
まず、医療従事者は、患者のニコチン使用状況を把握する際、「タバコを吸いますか」という質問だけでは不十分であることを認識してください。「電子タバコやパウチ、加熱式製品を含め、ニコチンを使用していますか」と具体的に問う必要があります。ニコチンそのものが直接的な血管毒である以上、これらすべての製品を心血管リスク因子として、高血圧や脂質異常症と同等に管理しなければなりません。
次に、禁煙支援のあり方を再考してください。WHOは2024年のガイドラインにおいて、電子タバコを禁煙ツールとして推奨していません。長長期的な安全性が不明であり、継続的なニコチン依存を維持させてしまうからです。科学的根拠に基づいた行動療法、ニコチン置換療法(短期間の医療用)、バレニクリンなどの薬剤を優先すべきです。
一般の知識人としてできることは、周囲に対して「煙が出ないから安全」「水蒸気だから無害」という誤解を解くことです。特に子供や若者がいる環境での使用は、それがどのようなデバイスであっても血管への物理的な攻撃であることを伝える勇気を持ってください。
研究の新規性と限界(limitation)
本研究の最大の新規性は、燃焼に伴う化学物質の影響を切り離し、ニコチンという単一の分子がいかに多様な経路(交感神経、酸化ストレス、血管新生、血液凝固)を介して循環器系に毒性を発揮するかを、初めて包括的な専門家コンセンサスとして定義した点にあります。これまで議論が分かれていた「ハーム・リダクション(害の低減)」という概念に対し、循環器の健康という観点からは明確に「NO」を突きつけた点は、政策決定においても極めて大きな影響力を持ちます。
一方で、本研究にはいくつかの限界も存在します。電子タバコや加熱式タバコ、新型ニコチンパウチの多くは、普及してからの歴史が浅いため、20年、30年といった超長期的なハードアウトカム(死亡率や心不全発症率の推移)に関する直接的な疫学データは、現在も蓄積されている段階です。また、製品の種類やニコチン濃度、添加されるフレーバーの種類が膨大であるため、すべての組み合わせについての個別的なリスク評価を網羅することは困難です。しかし、分子生物学的な機序と短期的な臨床データは、これらの製品が将来的に深刻な循環器疾患を増大させることを明確に予見しています。
結論
ニコチンは、もはやタバコの副産物ではありません。それは、それ自体が完成された循環器毒であり、世界的な公衆衛生に対する組織的な脅威です。科学的なエビデンスは明白であり、もはや妥協の余地はありません。目の前の「クリーンでモダンな選択肢」に見えるデバイスの裏側に、血管を蝕み、心臓を疲弊させる静かな宣告が潜んでいることを、私たちは正しく理解し、行動に移さなければなりません。
参考文献
Munzel T, Crea F, Rajagopalan S, Luscher T. Nicotine and the cardiovascular system: unmasking a global public health threat. European Heart Journal. 2025;00:1-18. doi:10.1093/eurheartj/ehaf1010.

