日本における中高年女性の労働市場参入が進む中、職場における安全対策が新たな課題として浮上しています。本稿では、2024年に発表された研究をもとに、貧血が女性パート従業員における転倒リスクに与える影響を多角的に探ります。この研究は、健康状態が職場安全に与える影響を明らかにし、実践的な対策を提示するものです。
研究背景
労働安全衛生の分野において、転倒事故は決して軽視できない重大な問題です。世界的に見ると、2017年には36,000人もの方が職場での転倒により命を落としており、非致死性の転倒でも、約20%が休業を必要とする重篤な状態に至っています。特に同一平面上での転倒(滑り、つまずき等)は、年々増加傾向にあり、医療費や労災補償の面からも大きな社会的負担となっています。
日本では50歳以上の女性労働者が全体の18%を占め、特に小売業やサービス業において多くの女性が立ち仕事に従事しています。転倒事故はこの層における重大な職場災害の一つであり、その背景には年齢的な要因だけでなく、貧血などの健康状態が影響している可能性があります。転倒事故は重大な身体的、社会的、経済的負担を伴い、職場での長期欠勤や治療費の増加、家庭や地域社会への影響が懸念されています。
貧血は日本女性の約14~17%が罹患する一般的な健康問題であり、その多くは疲労や注意力低下、さらには筋力低下といった症状を引き起こします。特に鉄欠乏性貧血は閉経前の女性に多く見られますが、その多くが治療を受けていない実態が浮き彫りになっています。
研究方法と主要な結果
方法
本研究では、2017年から2022年までの間に西日本の大規模スーパーマーケットチェーンで働く35–64歳の女性パート従業員6,780人(平均年齢51.1歳、閉経前47%)を対象としました。この層は、日常的に立ち仕事や荷物運搬、顧客対応など、多様なタスクを行うため、転倒リスクが高いと考えられます。より具体的な仕事内容は、在庫管理、食料品・日用品・衣料品の棚への補充、肉・魚・野菜などの生鮮食品の梱包、寿司や弁当の調理、接客、レジ周りの作業など。
健康診断データと職場の転倒事故記録を統合し、貧血の有無と転倒リスクの関係を調査しました。
- 貧血の定義:WHO基準に基づき、ヘモグロビン(Hb)値12.0 g/dL未満を貧血と定義。
- 軽度貧血:Hb値11.0~11.9 g/dL
- 中等度—重度貧血:Hb値<11.0 g/dL
- 転倒事故の定義:滑り、つまずき、転倒による事故で、医療機関受診が必要とされたもの。
- 統計手法:ポアソン回帰分析を用い、年齢とBMIを調整したリスク比(IRR)を算出。
結果
- 年間転倒率:全体の年間転倒率は0.7%で、比較的低頻度。
- 貧血者の転倒リスク:貧血を持つ従業員では、非貧血者に比べて転倒リスクが1.71倍(95% CI, 1.12—2.60)高いことが判明。
- 重度貧血の影響:中等度—重度貧血者ではさらにリスクが上昇し、2.13倍(95% CI, 1.18—3.84)。
- 閉経前女性:閉経前の女性では20.1%が貧血に該当し、その多くが鉄欠乏性貧血であったことが示唆されました。
貧血と転倒リスクの生物学的メカニズム
貧血が転倒リスクを高める背景には、以下のような分子生物学的および生理学的要因が関与しています。
- 組織低酸素症
貧血では、ヘモグロビン値の低下により血液による酸素運搬能力が減少します。その結果、筋肉や脳組織が十分な酸素を受け取れなくなり、疲労感、筋力低下、注意力の散漫といった症状を引き起こします。特に酸素供給の低下は、日常的な身体活動を行う能力を著しく低下させます。 - 鉄欠乏と神経認知機能
鉄は全身のあらゆる臓器・組織に分布し、造血以外にも様々な役割を有しています
・赤血球の重要な構成要素として酸素の運搬に関与
・ミトコンドリア内でシトクローム酵素の構成成分としてATPの合成に関与(エネルギー産生)
・DNA 合成に関与(DNA 合成の律速酵素,リボヌクレ オチドリダクターゼ)
・カタラーゼやグルタチオン・ペルオキシターゼなどの抗酸化酵素の構成要素となって活性酸素の消去に関与
・神経伝達物質(例:ドーパミン、セロトニン)の生産やミエリン形成に関与
鉄は細胞の増殖や生存,機能維持に不可欠の元素です。つまり、鉄分、貯蔵鉄を蓄えておくことは安定した心身を保つ「下地」「基礎」となります。全身的に鉄が少なめですと心身の不調を来す場合があります(めまい、肩こり、頭痛、皮膚トラブル、うつ、食欲不振、イライラなど)。認知能力や注意力が減退し、足元への注意が不足し、滑りやつまずきのリスクが増加します。 - 慢性炎症と貧血
貧血は慢性炎症性疾患(例:関節リウマチ、炎症性腸疾患)や栄養不良に関連することが多く、これらの基礎疾患が身体機能を低下させ、転倒リスクを高めます。慢性炎症は鉄代謝を乱し、貧血を悪化させる一因ともなります。 - ホルモンバランスと閉経 閉経後の女性では、エストロゲンの減少が骨密度や筋力の低下を引き起こし、転倒リスクをさらに高める可能性があります。閉経前の女性では月経過多が貧血の主要な原因となり、さらなる注意が必要です。
日本特有の問題
本研究で特に注目すべきは、日本の女性労働者における貧血の高い有病率です。調査対象となった閉経前の女性では、実に20.1%が貧血を有していました。これは欧米諸国と比較して著しく高い数値です。さらに、貧血を有する従業員の44%が中等度から重度の貧血であったという事実は、極めて憂慮すべき状況といえます。
予防と対策
本研究結果を踏まえ、職場安全と従業員の健康を向上させるために以下のような具体的な対策が推奨されます
- 定期的な健康診断の充実 現在、日本では労働安全衛生法に基づき、年次健康診断が義務付けられています。これに加え、鉄欠乏を早期発見するためにフェリチン測定を追加することが推奨されます。特に女性従業員には月経過多の有無を尋ねる問診を導入することで、潜在的な鉄欠乏性貧血を早期に特定できます。
- 栄養指導と食事改善 鉄分豊富な食品(例:赤身肉、レバー、魚介類、大豆製品)やビタミンCを含む食品の摂取を推奨します。職場内での栄養教育セミナーや、健康的な食事を提供するカフェテリアの導入も効果的です。
- 鉄剤の適切な使用 軽度—中等度の貧血患者には鉄剤の使用を検討するべきです。医療機関と連携し、個々の健康状態に応じた治療計画を立てることが重要です。
- 転倒予防プログラムの導入 職場での転倒防止策として、バランストレーニングや筋力強化エクササイズを推奨します。特に中高年女性に適した低衝撃のエクササイズ(例:ヨガ、ピラティス)は、身体的なバランス能力を向上させる効果があります。
- 作業環境の改善 滑り止めマットの設置、床の清掃頻度の向上、適切な靴の支給、十分な照明の確保など、物理的な環境整備を徹底する必要があります。
- 心理的サポートの提供 貧血による症状は心理的ストレスを増加させる可能性があるため、産業保健スタッフが関与し、職場でのメンタルヘルスサポートも並行して行うべきです。
今後の研究課題
本研究は貧血と転倒リスクの関連性を明らかにしましたが、さらなる研究が求められる点も指摘されています。
- 因果関係の検証:貧血の治療が転倒リスクを低下させるかを検証する介入研究。
- 多業種での調査:他業種や異なる職場環境での転倒リスクに関する調査。
- 閉経後女性の特性分析:閉経後女性におけるホルモン変化と貧血の影響の詳細な分析。
結論
本研究は、日本の女性パート従業員において、貧血が職場転倒リスクを有意に増加させることを初めて明らかにしました。特に中等度—重度の貧血ではリスクが2倍以上に達し、これは身体的な不調だけでなく注意力の低下や慢性疾患との関連を示唆しています。職場安全を考慮する際には、単に作業環境の改善にとどまらず、従業員の健康状態、とりわけ貧血の有無を重要な要因として取り入れるべきです。
従業員が安全に働ける環境を整えることは、企業の社会的責任であり、生産性の向上にも寄与します。本研究の知見を活かし、健康管理と職場安全の統合的アプローチを推進することが求められます。
参考文献
Shima, A., Kawatsu, Y., Morino, A., Okawara, M., Hirashima, K., & Fujino, Y. (2024). Relationship between anemia and occupational fall injuries in female part-time employees: An observational study of large supermarket stores in Japan. Journal of Occupational Health, 66(1), uiae063. https://doi.org/10.1093/JOCCUH/uiae063