はじめに
標高2500mを超える高地は、美しい風景の裏に、心血管系にとって予想以上に過酷な生理的挑戦を隠しています。特に、すでに冠動脈疾患(CAD)を有する患者にとっては、減圧・低酸素・寒冷といった複合的なストレスが、潜在する虚血リスクを顕在化させる可能性があります。
本稿では、2018年に発表されたEuropean Heart Journalの共同声明「Clinical recommendations for high altitude exposure of individuals with pre-existing cardiovascular conditions」に基づき、虚血性心疾患に焦点を絞り、高地曝露が心筋の酸素供給・需要バランスにどのような影響を及ぼすか、またそれにどのように対処すべきかについて解説いたします。
酸素不足下での心臓の適応:供給と需要
虚血性心疾患の病態において本質的に重要なのは、冠循環による酸素供給(Supply)と、心筋収縮に必要な酸素需要(Demand)のバランスです。高地では、吸入酸素分圧(PiO₂)の低下により動脈血酸素含有量(CaO₂)が減少し、それに応じて心拍数や心拍出量が増加します。このような交感神経優位状態は酸素需要をさらに高め、相対的虚血を引き起こすリスクを増加させます。
この供給・需要バランスを定量的に把握するために、本論文ではSubendocardial Viability Ratio(SEVR)が取り上げられています。これは、心筋酸素供給指標(DPTI)と酸素消費指標(SPTI)の比率で、SEVRが低下するということは、心内膜下領域の虚血リスクが高まっていることを示唆します。
健常者でもSEVRは低下する:科学的根拠
高地におけるSEVRの変化を調べた研究では、健常な成人を標高4559mに曝露したところ、SEVRは1.63 ± 0.15から1.18 ± 0.17へと有意に低下することが確認されました(P < 0.001)。これは、心筋への酸素供給が明らかに不足し始めていることを示しており、とくに心内膜下層の虚血リスクが高まっていることを意味します。
この研究では、アセタゾラミドという薬剤の効果も検討されており、その予防的使用がSEVRの低下をどの程度抑えられるかを評価するために、アセタゾラミドを服用した群と偽薬(プラセボ)を服用した群が比較されました。動脈血中の酸素含有量で補正したSEVR(SEVR-CaO₂)を用いた評価では、プラセボ群においてSEVR-CaO₂が29.6 ± 4.0から17.3 ± 3.0へと大きく低下しており(P < 0.001)、高地環境が心筋酸素供給に与える負荷を定量的に示しています。
この結果から、高地における低酸素状態が、健常者でさえ心筋虚血に近い状態を引き起こし得ることが明らかとなり、特に冠動脈疾患をもつ患者では、さらに慎重な対策が必要であることが示唆されます。
アセタゾラミドは虚血を防ぐか?
注目すべきは、アセタゾラミド(商品名:ダイアモックス)の予防投与がSEVRの低下を有意に抑制し、心筋虚血を緩和した点です。アセタゾラミドは炭酸脱水酵素阻害により代謝性アシドーシスを誘導し、換気量を増加させ、動脈血酸素飽和度(SaO₂)を改善することが知られています。この効果により、SEVR-CaO₂の低下も32.1 ± 7.0から22.3 ± 4.6(P < 0.001)にとどまり、虚血リスクの軽減に寄与していると考えられます。
このことから、高地登山を予定する虚血性心疾患患者にとって、アセタゾラミドは重要な予防薬の一つとなる可能性があります。
虚血発症の臨床的証拠
さらに注目すべき症例として、海抜においては運動負荷心電図で異常を認めなかった中年男性(軽度高血圧症、CADリスクあり)が、標高3340mでの心肺運動負荷テスト中に明らかな狭心症状と虚血性変化を呈したという報告があります。この患者ではSEVRおよびSEVR-CaO₂も顕著に低下しており、高地の低酸素環境が直接的に臨床的虚血を誘発したことが示唆されています。
冠動脈疾患患者は高地に行けるのか?
本論文では、冠動脈疾患患者の高地登山に関して、リスク分類に応じた推奨がなされています。
- 低リスク(CCS 0-I):最大4200mまで登山可能(軽〜中等度の運動に制限)
- 中リスク(CCS II–III):2500mまで慎重に登山可。ただし、運動は軽度まで
- 高リスク(CCS IV):登山すべきではない
(注)CCS分類(Canadian Cardiovascular Society分類)は、狭心症の重症度を評価するための臨床指標で、日常生活における身体活動に対する症状の出現度合いで4段階に分けられます。CCSクラスIは日常活動では症状が出ない軽症例、クラスIIは階段や坂道などで軽度の労作時に症状が出る中等症、クラスIIIは日常的な軽い活動でも狭心症が出現する重症例、そしてクラスIVは安静時にも症状があり、身体活動を行うことがほぼ不可能な状態を指します。
さらに、冠動脈ステント留置後の登山再開に関しては、少なくとも6〜12ヶ月の経過観察が推奨されています。これは、薬剤溶出性ステント後の非常に晩期のステント血栓症(3000mでの激しい運動後に発症)が報告されていることを考慮してのものです。
実践的提言:明日から活かせる登山前チェック
虚血性心疾患を持ちながらも高地に挑む際には、以下の実践的な準備が有効です。
- 6ヶ月以上の安定経過と、最近の心肺運動負荷試験での虚血所見なしを確認する。
- アセタゾラミドの予防投与(125〜250mg BID)を医師と相談の上で開始。
- 登山前・登山中のSEVRの変化を想定した負荷の調整:過度な運動は避け、標高上昇速度は1日300〜500m以内に。
- 登山後の症状モニタリングとSpO₂の自己測定(80%以下になった場合は下山を考慮)。
- 薬剤の継続確認:特に抗血小板薬(DAPTなど)を中断しないこと。
結論:虚血性心疾患患者も「賢く準備すれば」高地を楽しめる
本論文は、虚血性心疾患を持つ人々に対して、ただ登山を控えるように忠告するのではなく、病態に応じた個別の登山許容範囲と、安全に登るための生理学的根拠を提供している点で極めて実践的です。
SEVRのような先進的な指標を活用しながら、低酸素下での心筋虚血を科学的に予測し、アセタゾラミドなどの予防薬を併用することで、これまで高地登山を諦めていた患者にも新たな選択肢が開けるかもしれません。
参考文献
Parati G, Agostoni P, Basnyat B, et al. Clinical recommendations for high altitude exposure of individuals with pre-existing cardiovascular conditions. European Heart Journal. 2018;39(17):1546–1554. doi: 10.1093/eurheartj/ehx720
【補足】Subendocardial Viability Ratio(SEVR)の測定方法
Subendocardial Viability Ratio(SEVR)は、心筋内膜下層(subendocardium)の酸素供給と需要のバランスを非侵襲的に推定する指標であり、血行力学と虚血リスク評価に有用です。以下に、その測定方法と原理について詳しく説明します。
SEVRの定義
SEVR(Subendocardial Viability Ratio)は、以下の2つの時間積分指標の比として計算されます: SEVR=DPT/ISPTI
- DPTI(Diastolic Pressure Time Index):心筋への酸素供給の指標
⇒ 拡張期血圧 × 拡張期時間(面積)
⇒ 拡張期における冠動脈血流(主に内膜下層)への灌流量を反映 - SPTI(Systolic Pressure Time Index):心筋酸素需要の指標
⇒ 収縮期血圧 × 収縮期時間(面積)
⇒ 心筋の収縮に必要な酸素消費量の代用指標
測定方法(非侵襲的)
臨床でのSEVR測定は、脈波伝播解析(applanation tonometry)などを用いて頸動脈や上腕動脈の圧波形を非侵襲的に取得し、以下のように解析されます:
- 中心血圧波形の取得
- 上腕動脈(brachial)や橈骨動脈(radial)の圧波形をトノメトリーにより測定
- 数学的変換(transfer function)により大動脈圧波形を再構成
- 拡張期と収縮期の時間積分(波形面積)を計算
- DPTI:大動脈圧波形の拡張期部分の面積
- SPTI:同じく収縮期部分の面積
- DPTI/SPTI比からSEVRを算出
- 単位はありません(比率)
測定に用いられる装置例
- SphygmoCor®(AtCor Medical)
- Complior®(Alam Medical)
- PulsePen®(DiaTecne)
これらの装置は、**中心動脈圧波形(特に大動脈)**を再現し、SEVRを自動的に計算できるソフトウェアを備えています。
SEVRの臨床的意義
- SEVR > 1.0:心筋への酸素供給が消費を上回っており、虚血リスクは低い
- SEVR < 1.0:酸素供給が相対的に不足しており、心内膜下虚血のリスクが高まる
特に高地や運動負荷時、SEVRが低下することは虚血性心疾患患者におけるリスクサインとなります。
SEVR-CaO₂とは?
SEVR-CaO₂は、SEVRに動脈血酸素含有量(CaO₂)を掛けて補正した指標であり、実際の酸素供給能力により近い定量評価が可能です。
まとめ
指標 | 生理的意味 | 測定方法 |
---|---|---|
DPTI | 冠灌流=酸素供給の代用 | 拡張期圧波形の面積 |
SPTI | 心筋酸素需要の代用 | 収縮期圧波形の面積 |
SEVR | 供給/需要比 | DPTI ÷ SPTI |
SEVR-CaO₂ | 酸素含有量で補正されたSEVR | SEVR × 動脈血酸素含有量(CaO₂) |