医療や健康の領域ではこれまで、教育水準や所得といった社会経済的地位(SES)と健康の関連性が数多く報告されてきました。2025年にJAMA Cardiologyという米国の有名な医学誌に掲載された論説が、もっと深い問題を提起しています。それは「経済的不安(Financial Insecurity)」が心臓病や糖尿病のような“命に関わる病気”のリスクを高めている、という事実です。
「経済的不安」は誰にでも起こりうる
日本でも「老後2000万円問題」や「物価高騰」のニュースが流れるたびに、将来への不安を感じる方も多いのではないでしょうか?米国では、年収1500万円以上の世帯でも約20%が「給料日前には家計が厳しい」と感じているという調査があります。
つまり、経済的不安は「貧困層」だけの問題ではないのです。どんな年収レベルでも、支出が多ければ、家計の不安は生まれます。ローン、教育費、医療費…。そのプレッシャーは、じわじわと身体に影響を与えていきます。
経済的不安がもたらす“体の変化”
では、お金の心配がどうして病気につながるのでしょうか?
今回の論文によると、経済的ストレスは以下のような身体の反応を引き起こします:
- 自律神経の乱れ(交感神経の過剰緊張)
- ストレスホルモン(コルチゾール)の慢性的な分泌
- 炎症反応の増加
- 睡眠障害やうつ状態
- テロメア短縮やミトコンドリア障害といった加齢加速マーカーの変化
これらが積み重なると、「アロスタティック・ロード(生体への慢性的な負荷)」と呼ばれる状態に陥り、心臓や血管、さらには免疫や代謝の機能まで蝕んでいきます。
数字が語る、経済的不安と健康の関係
論文では、実際の大規模な疫学研究に基づいた次のようなデータが紹介されています:
- 経済的ストレスを抱える人は、心血管の健康スコアが最良の状態である確率が19%低下。
- 金銭的ストレッサーが多い人ほど、心臓病や糖尿病のリスクが高まる。
- 経済的ショック(収入が25〜50%以上減少)を受けた人では、心血管疾患の発症率が上昇。
また、経済的困難を経験した人は、主観的にも客観的にも「睡眠の質」が悪化する傾向があることも明らかになっています。
「経済的不安は、社会的な問題だけでなく、医学的な問題である」
この論文が持つ最大のメッセージは、「お金の不安=社会問題」では終わらない、ということです。
実は、医療の世界では「食糧不安」や「住居不安」といった問題は比較的注目されてきました。でも、それらは「経済的不安の下流」にある問題です。もっと上流、つまり本質的な原因に目を向けるなら、まさに「家計の不安」そのものを見逃すわけにはいきません。
医療の最前線でも、今後は「収入」「雇用の安定」「家計の見通し」といった情報を、診察室の会話に自然に組み込んでいく必要があるかもしれません。
解決策はあるのか?
ここで重要なのは、「経済的な不安を解消すること」自体が、ある意味で“医療的な介入”になる可能性があるということです。
米国で行われた「SCULPT-Job研究」では、糖尿病予防プログラムに、雇用相談や法律相談といった支援を組み合わせることで、より良い健康結果が得られるかどうかを検証しています。こうした社会的な支援は、薬とは違いますが、時にそれ以上の力を発揮することもあるのです。
最後に:今、私たちにできること
この話は、何も“遠いアメリカの話”ではありません。私たち自身や身近な人にも、家計の不安、将来の不透明感、日々のやりくりのプレッシャーは存在します。
そして、その不安が知らず知らずのうちに、心臓や血管、そして心の健康に影響を与えているとしたら——。少しの「自分をねぎらう時間」や「相談できる相手」、あるいは「生活に余白をつくる工夫」こそが、最良の“予防薬”になるかもしれません。
健康は、医療だけでは守れません。 経済の安定もまた、「命を守るインフラ」なのです。
参考文献
McLaughlin M, Albert MA. Financial Insecurity and Cardiometabolic Health—A Matter of Survival. JAMA Cardiol. Published online April 23, 2025. doi:10.1001/jamacardio.2025.0254