はじめに
持久系アスリートの身体が示す生理的適応の中でも、安静時心拍数の著しい低下、いわゆる「アスリート徐脈」は古くから医学的関心の対象となってきました。一般的には、トレーニングによる迷走神経緊張の亢進や、洞結節のリモデリングなどがその主因と考えられてきましたが、なぜ同様のトレーニングを積んでも、ある者は極端な徐脈を呈し、ある者はそうならないのかという個体差の理由は未解明のままでした。D’Ambrosioらによる2025年の最新研究は、この謎に対して「多因子遺伝リスク」という新たな光を当て、アスリートの心臓における生理的適応の概念を根本から揺るがす知見を提示しています。
対象者
本研究の対象は、Pro@Heartコホートに登録された現役および元エリート持久系アスリート465名(中央値23歳、75パーセントが男性)。(1) 地域社会から抽出された、一見健康なアスリート、(2) 症状に基づき不整脈が既知または疑われ、専門のスポーツ心臓クリニックに紹介されたアスリートが含まれました。アスリートは14歳以上で、有酸素運動がパフォーマンスの主要な要素となる持久力スポーツ(例:自転車競技、ボート競技、1500 m以上の長距離走、400 m以上の水泳、トライアスロン)に現在競技参加しているか、過去に競技経験(最低5年間)があったことが条件でした。陰性変時作用薬(β遮断薬、非ジヒドロピリジン系カルシウム拮抗薬、抗不整脈薬、イバブラジン、ジゴキシン)を服用している選手、心臓内デバイスを装着している選手、心筋症、早期興奮、または心筋梗塞と診断された選手は除外されました。
対象者に対し、心肺運動負荷試験、マルチモーダル(MRIやエコー)な心臓イメージングとホルター心電図を用いた緻密なフェノタイピングが行われました。
主な結果:アスリートが示す徐脈の実態
結果、現代のエリートアスリートが示す徐脈の実態が浮き彫りになりました。
まず、安静時最小心拍数が40bpm以下を呈するアスリートは全体の38パーセント(175名)に達しており、持久系競技における極めて一般的な現象であることが確認されました。
さらに、最小心拍数が30bpm以下という極端な例も2パーセント(7名)存在していました。
興味深いことに、2秒以上の心停止(ポーズ)は25パーセントのアスリートで観察され、3秒以上のポーズも3パーセント認められました。
最長のポーズ記録は、19歳のサイクリストにおける5.4秒の無症状夜間ポーズであり、これらはすべて睡眠中に発生していました。
特筆すべきは、これら極端な徐脈や数秒のポーズを呈するアスリートの多くが完全に無症状であり、約5.5年間の追跡期間中においても、失神やペースメーカー植え込みが必要となるような有害事象との有意な関連は見られなかった点です。この事実は、アスリートにおける徐脈の「正常範囲」を再定義する上で極めて強力なエビデンスとなります。
フォローアップの詳細
平均5.5年(4.3~6.5年)フォローアップ中、7名の選手が失神を報告し、うち6名は反射性失神または起立性低血圧でした。
17歳の男性選手1名(ホルター心拍計による最低心拍数46 bpm、HR-PRSでアスリートの下位4分の1)は、自転車競技中に頻脈が持続した後に失神を報告しました。検査の結果、CMR(心筋磁気共鳴画像)検査では選手の心臓に心筋瘢痕は認められませんでした。植え込み型ループレコーダーは、植え込み後約2.5年間の追跡調査で、現在まで不整脈を検出していません。
76歳の元ボート選手1名(ホルター心拍計による最低心拍数49 bpm、HR-PRSでアスリートの下位4分の1)は、症状のある洞結節機能不全のため、PPM植込み手術を受けました。
12名のアスリートが新たにAFと診断され、そのうち3名は徐脈(最低心拍数31、34、40 bpm)で、9名は非徐脈(最低心拍数42~52 bpm)でした。
ホルター心拍計による最低心拍数が30 bpm以下の7名のアスリートにおいては、追跡期間中に失神、ペースメーカー植込み手術、その他の有害事象は認められませんでした。
分子生物学的視点と遺伝的背景
洞結節のリモデリング
従来、アスリートの徐脈は迷走神経(副交感神経)の働きによるものとされてきました。しかし、近年の研究や本論文のディスカッションでも触れられている通り、自律神経遮断下においてもアスリートの固有心拍数は低いままであることが知られています。これは、洞結節そのものの分子レベルでのリモデリングを示唆しています。
分子生物学的なメカニズムとしては、洞結節におけるHCN4チャネル(いわゆる「funny channel」)の下方制御や、心房の機械受容性イオンチャネルの変容が、トレーニング誘発性の徐脈に関与していると考えられています。
遺伝的素因
本研究の真の新規性は、こうした分子レベルの適応の背後に、強力な遺伝的素因が存在することを証明した点にあります。
研究チームは、1万3千以上のバリアントから構成される心拍数関連ポリジェニック・リスク・スコア(HR-PRS: Heart Rate Polygenic Risk Score)を用い、アスリートの遺伝的感受性を評価しました。
HR-PRSとは、、ゲノム全体に散らばる数千から数万もの微細な遺伝的バリアント(一塩基多型:SNP)の影響を統合し、個人の「安静時心拍数の低くなりやすさ(あるいは高くなりやすさ)」を定量化した数値です。このスコアが「低いほど、安静時心拍数が低くなる傾向がある」という特性を持っています。
その結果、アスリート集団全体の平均HR-PRSは、一般対照群(ASPREEコホート、1万2千名以上)と比較して有意に低いことが判明しました。これは、エリートアスリートとして大成する人々自体が、もともと遺伝的に心拍数が低くなりやすい傾向を持っている可能性を示唆しています。
具体的には、HR-PRSが最も低い四分位に属するアスリートは、最も高い四分位の者と比較して、安静時徐脈を呈する確率が2.23倍(95パーセント信頼区間:1.29-3.86)に達していました。年齢、性別、フィットネスレベル、および右房容積を調整した多変量モデルにおいても、HR-PRSは独立した心拍数予測因子であり、遺伝がアスリートの心臓機能に決定的な影響を及ぼしていることが明確になりました。
「才能」としての徐脈
本研究が提示する最もインパクトのある仮説は、徐脈はトレーニングの結果である以上に、アスリートとしての「才能」の一部かもしれないという点です。
従来のパラダイムでは、1日1時間から2時間の激しいトレーニングが24時間の心拍数を変化させると考えられてきました。しかし、本研究の結果は、遺伝的に決定された低い心拍数が、トレーニング以外の時間も含めた24時間を通じて心臓の充満時間を延長させ、それがさらなる心構造のリモデリング(心拡大)や心拍出量の増大を促進している可能性を示しています。
実際に、HR-PRSが低い(遺伝的に心拍数が低い傾向にある)アスリートは、心房および心室の容積がより大きい傾向にありました。これは、低い心拍数という「遺伝的シグネチャー」が、優れた持久力を発揮するための心臓構造を作り上げる土台となっている可能性を示唆しており、スポーツ医学におけるパラダイムシフトと言えるでしょう。
臨床現場への応用
この研究結果は、スポーツドクターやトレーナー、そして健康意識の高いアスリートにとって、極めて実践的な価値を持ちます。
第一に、臨床的なスクリーニングの最適化です。現在、アスリートの心拍数が30bpmを下回る場合、専門的な精査が推奨されることが多いですが、本研究に基づけば、無症状であり、かつ高いフィットネスレベルと遺伝的傾向(HR-PRSの活用)が確認できれば、不必要な精密検査や競技停止を避け、経過観察という選択肢をより自信を持って提示できるようになります。
第二に、個人のベースライン理解です。もしあなたが持久系競技に取り組んでおり、安静時心拍数が極端に低い場合、それは単にトレーニングの成果だけではなく、あなたの身体が持久系競技に適した遺伝的ツールをすでに備えているというポジティブなサインかもしれません。自分自身の「固有の鼓動」を理解することは、オーバートレーニングの検知や、自己のポテンシャルの把握に役立ちます。
第三に、将来のリスク管理です。徐脈自体は短期的には安全ですが、高齢アスリートにおいては洞不全症候群や房室ブロックのリスクが高まる可能性も否定できません。若い頃から自身の心拍数と遺伝的傾向を把握しておくことで、将来的な循環器疾患の予防や早期発見に向けた、個別化されたライフタイム・サーベイランスが可能になります。
研究の限界(limitation)と今後の課題
本研究には、いくつかの重要なリミテーションが存在します。
まず、データの多くが横断的な解析に基づいているため、遺伝、徐脈、そして臨床的アウトカムの長期的な因果関係を完全に断定するには、さらなる縦断的な追跡が必要です。また、心拍変動(HRV)を用いた自律神経活動の詳細な評価が欠如している点も、メカニズムの完全な解明という点では課題を残しています。
加えて、対象者の99.6パーセントがヨーロッパ系人種であり、女性アスリートの割合も25パーセントに留まっています。人種間での遺伝的背景の違いや、月経周期が心拍数に与える影響などは考慮されておらず、結果をすべてのアスリートに一般化するには慎重さが求められます。また、HCN4などの特定の希少バリアントの評価は含まれておらず、ポリジェニックな影響に焦点を当てている点も理解しておく必要があります。
最後に
アスリートの心臓が奏でるゆっくりとしたリズムは、長年の努力の証であると同時に、親から受け継いだ緻密な設計図の現れでもあります。D’Ambrosioらの研究は、遺伝子というミクロな視点と、競技パフォーマンスというマクロな視点を結びつけ、スポーツ医学に「プレシジョン・ベースド(個別化)」の概念を導入しました。
私たちが明日から実践できることは、画一的な数値に惑わされるのではなく、遺伝的背景を含めた個体差を尊重し、個々の生理現象を深く洞察することです。アスリートの静かな鼓動は、病的なサインではなく、生命が極限の効率を求めて適応した結果、辿り着いた「進化の帰結」なのかもしれません。
参考文献
D’Ambrosio P, De Paepe J, Spencer LW, Ohanian M, Janssens K, Mitchell AM, Flannery MD, Bekhuis Y, Pauwels R, Delpire B, Dausin C, Rowe SJ, Van Puyvelde T, Young P, Soka M, Johnson R, Yu C, Morris GM, Robyns T, Lacaze P, Giannoulatou E, Kistler PM, Kalman JM, Heidbuchel H, Willems R, Claessen G, Fatkin D, La Gerche A; Pro@Heart Consortium. Bradycardia in Athletes: Prevalence, Mechanisms, and Risks. Circulation. 2025 Dec 18. doi: 10.1161/CIRCULATIONAHA.125.076170. Epub ahead of print. PMID: 41410046.


